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Morgan Campbell

シーンに約40年以上身を置く、オーストラリアのスケートカルチャーのキーマンにインタビュー。

Interview: Ryosei Homma

オーストラリアのスケートシーンで約40年にわたりカルチャーを支えてきたモーガン・キャンベル。幼い頃からスポンサーを獲得してシーンを牽引する傍ら、ビジュアル・アーティストとして自身を表現する作品も制作している。今回は、メルボルン初のバックブランド〈Crumpler(クランプラー)〉とのコラボレーションバックのリリースに合わせてインタビューを敢行。自身の生い立ちから作品の制作に至るまで様々な質問に答えてくれた。


City Loop: Crumpler X Morgan Campbell

まずは本誌の読者に向けて自己紹介をお願いします。

オーストラリアの西オーストラリア州パースで育ち、両親といえるのは母と祖母だった。フランス人の父は、僕が生まれてから性格に大きな問題を抱えたと聞いた。間も無く家族と接近禁止命令が出され、その後僕がまだ生後3か月の頃に父はフランスに帰国したようだ。父親が欲しかった時期もあったけど、なにも変化したくない気持ちもある。母は疲れ知らずの精力的な人で、父の欠如を補う以上のエネルギーとインスピレーションを与えてくれたんだ。僕は1974年に生まれ、その頃に世間ではちょうどウレタン製のスケートウィールが開発されて業界に革命が起きていた。だけど80年代初頭ぐらいにはウレタンウィールのブームは衰え、キッズの心はETとBMXに持ってかれたんだ。僕もその一人だし、1985年に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が公開されるとみんな夢中になったものだよ。それ以来、生涯契約を結んだように今日までスケートを続けている。1987年4月、トニー・ホーク(Tony Hawk)、ランス・マウンテン(Lance Mountain)、スティーブ・ステダム(Steve Steadham)が西オーストラリア州コテスローで行ったデモを見て、その時からスケートを可能な限り極めたいと考えているんだ。

長いことオーストラリアのスケートシーンにいて、現在はメルボルンのレジェンドスケーターと言っても過言ではないと思います。スケートを始めた頃の地元のスケートシーンは活発でしたか?

レジェンドと呼ばれるのは光栄だけど、それはちょっと言い過ぎかな。さっきも言ったよう僕はオーストラリアで最も西にある都市のパースで育った。メルボルンには80年代、90年代に何度か訪れ、2002年1月にようやく移住したんだ。その質問に答えるなら僕がスケートを始めた頃はパースもメルボルンもどちらのシーンもかなり活気があったよ。だけど80年代後半のスケートの爆発的な人気はそれ以来感じてないんだ。あの頃はどこにでもスケートボードがあったからね。僕の地元にはたくさんのスケートショップがあって、ランダムな郊外にもショップが乱立していたよ。だけど面白いことに公共のスケートパークはひとつもなかったね。代わりに様々なプライベートパークとストリートスポットがあった。1988年は誰でも簡単にスケートショップかパークを運営できると思っていたようで、1990年までにそのほとんどが倒産したんだ。その後約10年間はみんな残ったストリートのスポットで滑っていて、その結果パースは優れたストリートスケーターを輩出し続けている。メルボルンも常に強力で、おそらくオーストラリアのスケートの中心地だと感じているよ。

GLOBE、BUTTER GOODS、PASS PORTなど、オーストラリアのストリートシーンから生まれたブランドがいくつかありますね。あなたがスケートを始めた頃、オーストラリアにはどんなスケートブランドがありましたか?また、あなたのスケートキャリアについて教えてください。

当時のブランドは面白い名前のものがいくつかあったよ。Bonza、Burford Blanks、ATS、Reflexなどこれらはボードブランドだった。Shred Threadsはアパレルブランド、Cockroachはウィールブランド、Borgyはプラスチックプロダクト、Primateはニーパッドを製造していた。最初のスポンサーはPower Station 1988というショップから1988年に声がかかった。その後、Fremantle Surf SportsとMomentumというショップにもサポートしてもらったよ。僕の最初のビデオパートはおそらく1991年頃だったかな。1992年には初めてアメリカにトリップしてEMB、パウエルウェアハウス、サンタモニカのビーチフロントでスケートしたよ。このトリップは僕の人生観を変えるぐらい、現代のストリートスケートの急速な進化を目の当たりにした。オーストラリアに戻って撮影を続け、さらにスキルを高める努力をしたよ。1993年頃はボードがすぐ折れてしまうからスポンサーテープを作る必要があると痛感した。そして1993年後半にいくつか映像を送った結果、クイーンズランドのアウトレットであるKewdayが最初のファクトリースポンサーになってくれた。彼らはAlien WorkshopとEtniesを僕に紹介してくれ、すぐにボードプログラムを開始してシグネチャーボードを与えてくれたんだ。1996年に僕はまた旅に出たんだ。その後12年間で30か国以上でスケートをし、23回の夏と1回の冬を経験したよ。1998年から現在までオーストラリアを拠点にしていて、今はButter Goodsのおかげでたまに海外のツアーに同行しているんだ。1996年から現在までのスポンサーを羅列すると、デッキはInvisible、Blueprint、Premium、The 4 Skate Co、そして現在はMagenta。アパレルはRussell Athletic、REN、Juice Clothing、今はButter Goodsをもらっている。シューズはEmerica、e’s、Globe、Nike、adidas。トラックはOrion、Indy、そして今はAce Truckだよ。



スケートボードを通じて多くの国を旅したとおっしゃいましたが、印象的な出来事などはありますか?

ダニー・ウェイが万里の長城をジャンプするのを生で見たよ。あれはかなり衝撃的だった。1998年初めにロサンゼルスのトレードショーで、ハロルド・ハンター(Harold Hunter)とピーター・ビシ(Peter Bici)の間に座ってMixtape 2を見たのを覚えている。何年も経ってから、あれがいかにクレイジーな経験だったかを悟ったよ。スコットランドで見た、17歳のジョン・ラトレイ(John Rattray)の滑りにはたまげたね。それからスイスのジュネーブで足首を脱臼し、再建手術を受けたのは大変だった。スケートとは関係ないけど、僕が今まで見た中で最も衝撃的なことの一つは、ソウルで米海兵隊員が通りで倒れている韓国人男性から財布を盗むのを目撃したこと。何が起こったのか理解した後、彼に財布を返すように促したよ。旅は素晴らしいものだった。そして常にエンターテイメントの源なんだ。




あなたは生粋のスケーターであり、またビジュアルアーティストでもあります。コラージュを使ってアート作品を作り始めたきっかけはなにですか?

長年、旅行記にコラージュを作ったり、友人のためにカードを作ったりしていたけど、それがやがて紙のコラージュにつながったんだ。それは新しいクリエイティブな方法で、コンピューターから離れる手段でもあった。僕たちはコンピューターを使いすぎてしまうからね。雑誌や本を探すのは楽しいミッションと思っていて、そのプロセス全体が本当に好きだよ。スケートと同じように素材を見つけ、それをどう使うのか方法を考え、セッションして次に進むんだ。



あなたの作品には生物や、都市、宇宙的なモチーフが登場します。作品の主なコンセプトはなにですか?

作品全体を貫くコンセプトがあるかどうかはわからない。だけど建築、動物、宇宙が好みなんだ。人間はかなり奇妙な種で自分たちを真剣に考えすぎるから、それをからかうのも面白いよ。通常の制作のプロセスはコラージュのベースとなる画像を見つけ、そこから発展させていく。最近は90年代の象徴的なスケート写真を有名なランドマークに配置することが楽しいかな。子供の頃に部屋に飾っていた写真に新しいひねりを加えるんだ。

これまでアートワークを提供したブランドやコラボレーションについて教えてください。

地元のボードブランドThe 4 Skate Co、カットソーの強豪Butter Goods、フランスのアヴァンギャルドなボードブランドMagenta、再始動したSatori、そして最近ではCrumplerだよ。




Crumplerとのバックパックのプロジェクトはどのように始まったのですか?

2022年に僕はRFDSというテレビ番組の撮影のためアウトバックに住んでいたんだ。撮影の直前に、番組のキャラクターのためにたくさんのバッグをゲットするためにメルボルンのCrumplerを訪れた。ブロークンヒルに戻ってバッグを調べたところ、その品質には驚かされた。その後数か月間、Crumplerと連携してコーディネートできるプロジェクトをブレインストーミングしたんだ。それは、エリートスケーター、多作なグラフィティライター、BMXライダー、そして最後の一人はストリートフォトグラファーになるはずのシグネチャーバッグのシリーズだった。メルボルンに戻った後、そのアイデアを非常に親しみやすいオーナー兼デザイナーに提案したところ、ミーティングに呼ばれたんだ。話が終わる頃には、代わりに自分のバッグを作ってみないかと言われた。まさかそんな展開になるとは全く思ってなかったけど、それ以来バッグのディテールに夢中になっているよ。

作成したバッグに対するリクエストはなにでしたか?

スケートバッグのように見えずにスケートボードを丸ごと持ち運べるバッグが欲しかったんだ。グリップテープやストリートの過酷さに耐えられるように、非常に丈夫なものにしたかった。そしてかっこいい配色で、オレンジ色の裏地にコラージュをプリントすること。丈夫なジッパーを備え、ノート、ペン、サングラスなどを収納できるポケットが欲しかった。背面はパッドをたくさん入れた上で通気性の確保も重要だった。

City Loop: Crumpler X Morgan Campbell

将来の目標や、やりたいことはありますか?

素晴らしい家族を養い、たくさんの時間を一緒に過ごしたい。僕には人生の光である2歳の娘がいるんだ。素晴らしい人生のパートナーであるエミリーを愛しているよ。彼女たちと世界を旅したい。数年後には、オーストラリア一周旅行に行けるかもしれないよ。スケートを続け、このような楽しいプロジェクトを企画していきたいんだ。新しいスポットを見つけ、そこでどのようにスケートするかを考え出したいと思っているよ。






Morgan Campbell

40年以上にわたりオーストラリアのスケートシーンを支え続けるモーガン・キャンベル(Morgan Campbell)。西オーストラリア州パースのストリートでキャリアをスタートし、幼い頃からスポンサーを獲得してシーンを牽引。また、スケートボードを通じて多くの国を旅し、様々な衝撃的なスケートシーンを目撃・経験してきた。 現在はメルボルンを拠点に、スケーターとしての活動に加え、ビジュアルアーティストとしても独自の才能を発揮している。作品には生き物や都市、宇宙的なモチーフをコラージュして作品へと昇華させている。Butter Goods、Magentaなどのブランドにアートワークを提供しており、最近ではオーストラリアのブランドCrumplerとのコラボレーションバックもリリースした。 スケートボードとアート、二つの領域をクロスオーバーさせながら、オーストラリアのスケートカルチャーに深く根ざし、多大な影響を与え続けている稀有な存在である。

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