
Interview with
NAZE
NAZEが描き出す
センチメンタルでノスタルジックな世界
NAZEが描き出すセンチメンタルでノスタルジックな世界は愛おしく思う反面、胸が張り裂けるような感覚を与えてくれる。めまぐるしく変わってしまう社会や街並、人間関係の渦中で忘れてしまった大切ななにかを、これらの作品は思いださせる役割を果たしているのかも知れない。
- Interview:
- Ryosei Homma
- Photo:
- Kouichi Nakazawa @koichicks
- Article from Hidden Champion Issue58, Fall 2020

──まずは幼少期のお話を教えてください。絵は描いていたんですか?
茨城出身なんですが、幼い頃からもの作りが好きでしたね。同時に収集癖もありました。ある日、小学校から一人で下校しているときに綺麗なガラスの破片を見つけたんです。そこには木の枝と輪ゴムも落ちていたので、それらを拾い集めて1本の槍を作り、それを家の机に飾っていました。それから落ちているゴミを組み合わせて武器や作品を作ることに魅了されていきました。作ったものを街に飾ったりしている時期もありましたね。同時期に“インディアンの被り物をしている宇宙人”がプリントされたダサいTシャツを見つけて一目惚れしちゃって。その絵を模写したり、自分が好きだった龍の絵を組み合わせたりして絵も描いていました。他にもマッコウクジラとかラットフィンクとか、とにかく好きなものを模写していましたね。それが絵を描きだしたきっかけです。

──その後グラフィティに出会うんですね。
15歳ぐらいの頃に、田んぼの中に建っていた小屋にスローアップが描いてあるのを発見したんです。当時はそれが何かも分からず「超かっこいいやばい絵がある」って思いながら見ていました。その頃スケボーも始めていて、地元のスケートショップに行ったときに店内に流れていたスケートビデオに田んぼにあったのと似た絵が出てきて。「えっこれじゃん。なんか知らないけど僕がかっこいいって思っていたやつだ!」と思いながら、ショップの店員さんに「これは一体何ですか?」って聞いたら「グラフィティだよ」って教えてくれたんです。そしてグラフィティの本だよって『KAZE』マガジンを見せてくれて。その瞬間に心を撃ち抜かれて大好きになりましたね。そこからのめり込むようになりました。

──なるほど、そこが初期衝動だったんですね。スケートボードは周りの影響で始めたんですか?
なぜか家にスケボーがあったんです。母子家庭なんですが、母親がフィリピン人のパンチの効いた人で、ストリートカルチャーが好きなのか、幼い頃に「これかっこいいから聞きなさい」ってZeebraとか聞かされてましたね。他にも、学校から帰ってきたら「これ面白いから見なさい」ってブラウン管でVHSの『サウスパーク』を見させられるみたいな(笑)。夏休みはよく母がフィリピンに帰省していたので、もちろんそれについて行くじゃないですか。母は故郷が好きみたいで長いこと滞在するんですよ。そして帰ってきたら小学校の夏休みが終わってから1ヶ月経過していたこともありました(笑)。そこらへんからうちの母親は周りの親とはちょっと違うぞって気づき始めましたね。暴力などで大変な時期もありましたが、今となっては良くも悪くも自分の感覚をバグらせてくれたということで、いい親の元で育ったのかなって思います。

──作家として作品を世に発表するようになった転換期はいつですか?
17〜18歳ぐらいの頃、特にグラフィティにハマっていて。ある時スプレー缶をネットで買ったら、ワタリウムで展示をやっていたバリー・マッギーのフライヤーが同梱されていて、それを目の当たりにするんです。それがめちゃくちゃカッコ良くて。それからオリジナルのキャラクターを描けるようになりたいっていう単純な理由で美大に通うことを決めました。大学では本当に学ぶことが多かったです。ペンの使い方やドリッピングなど、初めて体験する手法が楽しくて刺激的でした。でもグラフィティを続けながら大学生活を過ごしていたら、気が付いたら4回生になっていまして。卒業後のことなんて何も考えていなくて、その時お世話になった先生に「お前は何かしらアクションを起こさないとダメだぞ」って言われて、半ば強制的に企画展の公募にエントリーさせられたんです。

──どういう企画だったのですか?
「FOIL GALLERY」というところの企画で、100人のお客さんの前で自分の作品をプレゼンして選ばれたら展示ができるという内容で、その審査員がFOIL GALLERYの竹井さんという人と奈良美智さんでした。正直面倒くさいなって思いながら前日ギリギリにポートフォリオを作り終えて。当日も遅刻しそうになりながらスケートに乗って、制作物を片手に鬼プッシュで会場へ向かったんですよ。着いたら汗びっしょりで(笑)。それから始まってしばらく経って気がついたんですが、どうやらみんな面接みたいに家でプレゼンの練習をしていたようなんです。「これはどういう意図で、ここの部分にこういった意味を含ませてます」みたいな。僕は直前まで無我夢中で作ってたんで、プレゼンがあることすら覚えていなくて。そしたら順番が回ってきてもうヤケですよ。100人の前で自分の絵を指差して、「僕の絵の一番かっこいいところはここです! おすすめポイントはここです! どうですか皆さん?」みたいな(笑)。そうこうしているとなぜか2人の審査員が食いついてくれて(笑)。奈良さんから「アメコミのキャラクターの“SOF BOY”好きなの?」とか「グラフィティ好きなんだね」って話しかけてもらえたんです。奈良さんも「落書きで捕まったことあるよ」って話したりしてて。でも実はその時は奈良さんは有名な作家だなぐらいで、どれだけすごい人なのか知らないで話してたんです(笑)。「やっちゃいましたね!」なんて冗談を言っていたら、会場がウケたりして(笑)。それで打ち解けてワイワイ話してたらその企画に通っちゃって。それで初めての展示が決まりました。
──そこで絵で飯を食っていく決意をするんですか?
そこで初めて作品に値段をつけるという行為をしました。自分の絵にお金を出してくれる人がいて本当にうれしかったですね。でもそれまでは、作った作品は友達やスケーターの先輩にあげたりしてそれが当たり前だったから、売れたのは嬉しいけど全く知らない人が自分の作品を持っていくっていうところに違和感はありましたね。今となっては気に入ったからお金を出して買ってくれるんだと解釈して単純に嬉しいと感じますが。

──過激に見える作品が多いように感じます。ポップな花をモチーフにしていてもその根底には悪夢が潜んでいるような独特な作風に見受けることができますが、絵を描くことに対してのテーマを教えてください。
問題があった家庭環境にすごく影響を受けていると思います。キリスト教の家庭で育ったんですが、悪いことをしたら神様の像の前に座らされて懺悔をさせられていました。だけどある時、「なんで俺はこの意味のわからない置物に謝っているんだろう」っていう気持ちが生まれたんです。しかもその場所まで髪を鷲掴みにされて引っ張られて行くわけですよ。「その行為自体謝れよ」って思ったりしてて。その頃は懺悔の行為といい暴力といい母ちゃん本当に頭狂ってんなと思ってましたね(笑)。それらを経て、学校の授業で“神様”と正反対の“悪魔”という存在を知る日がくるんです。「これこそ俺が求めていたものだ! 悪魔カッケー!」ってすんなり自分に入ってきて(笑)。ビジュアル的にもヒーローよりヒールの方が断然好きでしたね。あと、悪党って哀愁あるじゃないですか。誰にも理解してもらえず寂しい思いのまま悪党になっちゃうみたいな。めちゃくちゃ寂しいのにそれを理解されないまま正義のヒーローがボコボコにしてストーリーはハッピーエンド。「何にも救われてないし、なぜ?」って気持ちがあって、そこが自分とリンクしたんです。ホントはこう思っているけど怖くて言えない、そういう悪魔とか敵キャラにあるようなおどろおどろしい表現のモチーフが、自分が描くものにつながっているんだと思います。
──その経験が今活動している名前「NAZE」につながるんですね。
はい。初めは本名をもじったタグネームでやっていたんですが、ある日グラフィティを教えてくれていた先輩が「自分の気持ちを発信するものだ」って教えてくれたことがありました。じゃあ「自分が伝えたいことはなんだろう?」と考えたときに、見た人によりわかりやすくてストレートに自分の気持ちを表した名前がNAZEでした。グラフィティを始めたきっかけも結局はインパクトでやっていましたが、続けている理由を考えたときに反抗期の時期に反抗できなかったって事を思い出して。家庭環境がめちゃくちゃで暴力などもあったけど、結局は自分の肉親だし悲しんでいるところは見たくないっていう気持ちがあって反抗できなかったんです。母にとって日本にいる唯一の家族である僕ら兄弟が反抗したら家庭が崩壊してしまうぐらいグラグラだったんです。その小さなアパートの一室が自分の世界だと感じていたので、それを守るには自分たちが我慢するしかなかったんですよね。反抗できない分、街に“NAZE”って描くことによって自身の気持ちを外に曝け出していたんです。

──現在は作品の中にもローマ字で「WASURETA KOTOWO WASURE NAIDE」といった言葉のデコレーションがありますよね。
自身の主張の延長線で今のスタイルになっています。言葉を考えることが好きで、「忘れたことを忘れないで」という言葉はすんなり入ってくるけど、よくよく考えると誰にでも考えさせられる節はあるんじゃないかって思うんです。それを考えることによって、忘れていたことを思い出すような。そういう言葉を考えるのが好きですね。それにローマ字で描くことで外国の方でも音には出せるじゃないですか。気になって調べたら意味も掴めます。一時期“NAZE”を“WHY”にしたり、言葉を英語にしていたりしたんですがしっくりこなくて。日本語の音が好きだから、それはそのまま描きたいなと感じました。それにローマ字で描くことで意味が増えるんです。例えば「OMOI DASHITE SHIMATTA KOTO」っていう言葉は、「思い出してしまった」、「思い出したくないから心に仕舞う」っていう2つの意味が生まれる。それがローマ字で描く言葉の意味だと思いますね。
──最近では活動のルーツともとれる、ミューラルを仕事として描く機会が多くなってきたんじゃないんですか?
最近になってミューラルの仕事は増えてきましたね。当時グラフィティは大きいものをメインに描いていたんですが、発表している多くの作品はドローイングなので、一般的にはその印象が大きいからかミューラルの仕事はあまりなかったんです。そんな時に京都のとあるギャラリーの方が僕の活動をちゃんと見てくれていて声をかけてもらい、最近では高輪ゲートウェイ駅でミューラルを描かせていただいて心から楽しめました。
──コロナの自粛期間中にもギャラリーに行けないからギャラリーを届けるという新しい試みをやっていましたね。
半蔵門にあるギャラリー「ANAGRA」のメンバーが「A.N.D.」という新しいアウトプットを始め、その1回目として声を掛けてもらいました。家にいながら楽しんでもらうものというコンセプトで生まれたのがその「エキシビションボックス」を作る企画でした。小さな家の形をした段ボールの中にギャラリーがあるというコンセプトのもと、絵が飾ってあるように配置し、そのボックスを注文していただいた方の家に直接届けました。箱の中にはZINEや植木鉢、サコッシュなど色々なアイテムを詰め込んでいます。NAZE感でいうと開けたときの楽しみを大切に考えていて、届いてから遊べるようにさっき話したようなNAZEの言葉が描いてある「スゴロク」を作って入れていました。
──幼い頃から好きだった創作するということが、作家として形になった一例ですね。
ようやく最近になってやりたいことが全て満遍なくできる環境になってきています。スタイルもそうですが、1つのものに縛られないというか、縛られたくないという気持ちがあって。絵も描くし、立体も作るし、服もカスタムするし、陶器も作るし、壁にも描く。創造するっていう行為自体が好きだから、ひとつの表現方法に固執しすぎる必要はないと思います。
──人生の目標はありますか?
シンプルに、いつかこれまでに制作した全ての作品を並べて展示してみたいです。広いギャラリーや美術館などで。70歳ぐらいまでには世界中に散らばった作品を集めて並べ、それを見て懐かしみたいです(笑)。
Latest Post

ティンバーランドに描いた ZECSの壁画制作の裏側
Timberland present ICON Art Wall feat. ZECS
ReCap

HIP HOPの記憶を纏ったイエローブーツ
ZECSによるウォールアートが出現
Timberland present ICON Art Wall
featuring ZECS

NAZEがLAでの個展を経て、
ギャラリー「月極」での個展を実施
“TORI MODOSHITAI”
NAZE Solo Exhibition

日本のカーカルチャーを再定義する試み
「街道レーサー」エキシビション
Kaido Racer Exhibition
BadBoyAuto & Park Baker

インドネシア発のスケートビデオプロジェクト 「Holiday Route」によるプレミア
Holiday Route
Premiere at MORTAR TOKYO

次世代アーティストが集結する
グループアートショーが開催決定
“Out Of The Diary”
Group Show

アーティストAki YamamotoによるHIDDEN WALL™ 17の展示風景
Photo Recap
HIDDEN WALL #17 feat. Aki Yamamoto

MORTARのために描いた「鷹が伝説のデッキを見つけた」というコンセプトの秀作
MORTAR GALLERY
feat. Gakou Yutaka

「YUMYUM」が、路上からキャンバス、グラフィックから立体物まで縦横無尽に駆け回る
Photo Recap
HIDDEN WALL#16 feat. ZECS

恵比寿の廃ビルを用いたアートプロジェクト 「アート・ゴールデン街」