Issue #74
Fall 2024
ストリートに反復するフロウを持ち込んだパイオニア
Interview: Hidenori Matsuoka
日本の伝統文化が残る京都に生まれ、スケートボードを軸にストリートカルチャーに影響を受けながら育ったKAMI。彼が生み出した力強いラインは、「余白」や「間」といった日本的な要素を感じさせると共に、「具象」が主流であったグラフィティシーンに「抽象」をとり入れ、90年代のストリートに強烈なインパクトを与えた。
1999年、近年のミューラルムーブメントの走りともいえるニューヨーク発祥のBARNSTORMERS(バーンストーマーズ)の初期メンバーとして活動し、それまでスプレーを用いたアルファベットのタグやスローアップが主流だったグラフィティシーンにおいて、マーカーやペンキを用いて描かれたKAMIの独特なラインは、「グラフィティ」から「ストリートアート」へ、日本のシーンが発展しはじめた転換点のまさに中心であったといえる。KAMIが生み出した新しいスタイルは多くの人々に影響を与え、今もなお追随するアーティストが多く存在している。日本が誇る、ストリートアート/グラフィティシーンの重要人物であるKAMIのラインは、どのような背景から生まれたのだろうか。最新作とともに、これまでの活動の軌跡を紹介したい。
―パートナーであるSASUとのユニット、HITOTZUKIとしてのインタビューは何度かさせていただいていますが、今回はKAMI個人としての質問をさせてください。今回の個展のタイトルは「1999」ですが、どういった意味があるのでしょうか。HITOTZUKIは1999年に結成しているとのことなので、それ以前ということでしょうか。
今回の「1999」は自分にとって区切りのいい象徴的な数字だと思ったんです。99年って90年代が終わる最後の年でもあり、2000年を目前として、これからどうなっていくんだろうって良い意味での未来への希望をもの凄く感じていた節目の年でもありました。年齢的なこともあるのかもしれないですけど、最近になっていろいろと過去の出来事を思い返すことが多くなってきたという事もありますね。例えば「90s」みたいなムーブメントがあったり、身の回りで懐かしい音楽を耳にしたり、その当時のような格好をしている若者を見かけたりして、あの時代は熱かったなとか、その時の空気感を思い直すことも多くて。やっぱり一番色々なことに影響を受けた時期なので。「あの時のあの景色、実はあれが発端になってるのかな」とか、「友達はみんなどうしてるかな」とか、誰しもそういう事ってあると思うんですよね。今回の作品を作る上でそういう想いを題材の糸口にしたいと思っていたので、過去を再確認し、そこから発展した“今”を表現しようという意味でタイトルにしてみたんです。
―実際に90年代はどのように過ごしていましたか?
僕は京都出身で、10代はとにかくスケートボードをしていましたね。当時のスケート仲間とは本当に楽しい時間を過ごしました。そういった流れで自然とグラフィティなどのストリートカルチャーにより傾倒していましたね。だからもっとそういうことの中心地に身を置きたくて96年に上京しました。音楽が好きで、特にヒップホップがすごく好きだったので、京都にいる時にMICROPHONE PAGERの『東京地下道』って曲を聞いた時に、「東京って一体どうなってんだ?」って頭の中で想像がかなり膨らみ、もう実際に行って確かめるしかないなって思ったんです(笑)。上京後、色々と東京ライフを満喫していたのですが、ある日ニューヨークのRAWKUSというレコードレーベルから出ていた『Soundbombing』っていうミックステープを手に入れ、その中に入っていたCompany Flowの『The Fire In Which You Burn』って曲にすごいインスピレーションを受けたんです。今までに全く体感した事のないような、すごく未来的で異質な感じがしました。こういう枠を超えた表現があるんだなと、今までヒップホップだって捉えていたことの先にまだまだ広がりがあることを知って、それで「ニューヨークって一体どうなってるのかな」と思って、自分の目で確かめるしかないって、友達を訪ねて99年にニューヨークに行ったんです。
―まさか音楽の話になるとは思いませんでした。ニューヨークではどういう出会いがあったのですか?
最初はブルックリンのPaiちゃんという友達の家にステイしていたんですが、マンハッタンにもっと広いロフトを持ってる友達がいるからそこに移動しようってことで、後にバーンストーマーズのリーダーとなるデイビッド・エリスのところにステイさせてもらったんです。そこでニューヨーカーのアーティストライフみたいなものを目の当たりにしたわけです。それにはすごいインスピレーションを受けて、自分も人生をこんな風に生きたいって強く思いました。同じ時期にダイチ・プロジェクトでバリー・マッギーの一番最初の展示(The Buddy System, Deitch Projects, 1999)をやっていたんです。もちろんバリー・マッギーというかTWISTのことはスケートボードをやっていた流れで93年頃から知ってはいました。当時のSLAP MAGAZINE(スケートボードマガジン)の表紙が本当にヤバかったので。その展示でも赤い壁をバックに、おじさんだったり、ネジだったりが描かれていて、自分が勝手に思い描いていたいわゆるグラフィティの本流から逸れたオリジナリティのあるスタイルに、かなり刺激を受けましたね。ストリートカルチャーの中にいながらも、新しいアプローチで表現されている展示を生で感じることができたんです。
―そこから自身の活動をスタートすることになったのですか?
スケートボードを片手にブラブラと自由な毎日を過ごしていましたが、ニューヨークの街の感じとか、人とか、音楽とか、視界に入るグラフィティとか、歩いてるだけでそこらじゅうからインスピレーションを受けるじゃないですか。その中で「俺は何しに来たんだろう」って思い始めたんですよ。いろいろなものを見て情報を吸収するのはいいんだけど、俺は一体何をしてるんだって。自分でも何かやらないと色々と受け取ったエネルギーが消化しきれなくなっているのを感じていました。そこでまず、郵便局でもらったステッカーにドローイングしまくることで蓄積されたものを解放し始めました。とりあえずスケートボードと同じ様な感覚で、描くことでコミュニケーションを取るしかないなと。とにかく描きまくっていましたね(笑)。
―では話は遡りますが、96年に上京する前、京都時代にも何か描いたりはしていたんですか?
昔から描くことは好きで、進学する時に描くことならできると思って美術の予備校に行って、一応短大は行きましたが、やっぱりスケートボードのグラフィックやレコジャケとかに出てくるグラフィティやイラストにものすごく惹かれていたので、ストリートカルチャーにインスパイアされたものをとにかく描きたい気持ちの方が強かったですね。最初はそういう絵はスプレーを使って描くものだっていう程度の認識しかなくて、グラフィティがやりたいのか、グラフィックデザインなのか、イラストレーションなのか、その頃はまだ区別もなく興味のまま描いていた感じでしたね。
―以前、「ニューヨークで、未来も過去も関係なく、国境を越えたアブストラクトなラインを作りたいと思った」と話していました。今に続くその「ライン」はその頃に生まれたのですか?
当たり前ですが、ニューヨークにはいろんな人種の人達がいて、それぞれにすごく人種の特徴があると感じたんです。その中でもアジア人にはアジア人の特徴があって、改めて自分はジャパニーズなんだなって感じました。そんなことを確かめるつもりでニューヨークに来たわけじゃないのに、日本人であることを炙り出された気がしたんです。日本で生まれ育った自分のアイデンティティを考えたときに、それなら漢字だろうって単純に思ったりもしましたが、確かに漢字を表現に取り入れるのはフレッシュかもしれないけど、アジア圏の人以外には伝わりにくいですし、そもそも自分がグラフィティを見る時って、文字として読んでいるわけではなくて、いろんなタグとかレターとかもアルファベットなんだけど、結局タッチとかフローとか記号や暗号のような見方をしているんだなと思って。だから別に文字じゃなくてもいいし、抽象的な形でもいいんじゃないかと思い、自分のありのままを表現できる“独自の形”を求めてステッカーに描き出したのが最初ですね。
―その頃すでに、あのツボみたいなラインとかも描いていたのですか?
いや、まだ全然そういう感じにはなっていなかったです。でもそこで初期型みたいなものは生まれていました。それで、昔の記憶を混ぜながら、とにかく描いて描いて、そして描いたものを部屋の床に並べてパズルみたいな感じにして、並び替えたら図が半分になったり、繋がっているとこと繋がってないとこがあったりして。マーカーを変えラインを太くしたりとか。試行錯誤しながら徐々にそぎ落とされて、描いてて気持ち良いな、好きだなって思う曲線だけが残って洗練されていったんです。
―99年にトレーラーの一面に描いている写真がありますが、それも同時期ですよね? どういう経緯で描いたのですか?
デイビッド・エリスと、彼のロフトで長いブラウンペーパーに一緒に絵を描いたんです。それをマンハッタンのどこかに貼りに行ったんですよ、するとデイビッドが、次は俺の地元のノースカロライナのキャメロンっていうところに、昔描いた納屋(バーン/BARN) があるから、そこに描きに行こうと誘ってくれて。そこはタバコで有名な地域で、タバコ葉を乾燥させる為の納屋が沢山あるらしく、もう訳がわからないけど、すぐに行きましたね。でもいきなり「納屋に描こう」って言われても、自分自身のスタイルもまだはっきりとは掴めていなかったから「自分は何を描けばよいのか」って感じだったんですよ。そこで、追い詰められて、何か自分の故郷を思い起こすモチーフを残したいなと直感で思い立ち、雲を描く事にしたんです。それが初めてのミューラルの体験でしたね。面も荒いし、気温もかなり暑くて過酷だったんじゃないかな。ハシゴで描くのも全てが初めての経験で、身体全部を使ってもう必死で4日くらいで完成させました。その経験を経て、自分の進むべき道はこれだ!って運命を感じましたね。その後、描いた壁を地元の人たちがえらく気に入ってくれたらしく、じゃあ次はニューヨークからアーティストの仲間をもっと呼んで他の納屋にも描くプロジェクトにしようって話になったんです。それで次の機会に大人数でノースカロライナに戻ったら、地元の人たちが歓迎会みたいなのを用意してくれていて、体育館にバナーが貼ってあって「ウェルカム、バーンストーマーズ!」みたいになってて(笑)。そこにあのトレーラーも用意されていたんです。
―バーンストーマーズって地元の方が名付けたんですね(笑)。そこで、それまでスプレーやマーカー等のグラフィティ的なアプローチだったのが、急に壁画を描く事になったんですね。
そうなんです。当時そこにはROSTARR、ESPO、MIKE MING, KENJI HIRATA等のアーティストや、その他にフォトグラファーやフィルマー、グラフィックデザイナーなど色々な人が参加していましたね。翌年の2000年にはSASUも合流して、KR(Craig Costello)やWESTONE、Ryan McGinness、JESTとかALIFE周りの人も参加して、地元の人の家の庭でキャンプさせてもらいながら描きました。最初に描いた壁と同じくトレーラーの時も結構追い詰められて、一人で終わらせられるか不安でしたね。でもその挑戦の連続で自分を取り巻く環境が目まぐるしく変化して、一気にいろんなことが繋がっていったって感じでした。
―結果としては、ノースカロライナに行ったことも、その後の活動を考えると影響が大きそうですね。
そうですね。ノースカロライナってニューヨークと比べるとすごく田舎だと思うんですよ。デイビッドはその土地の出身なので、そういう自然の多い場所の壁に描くというイメージに自然と繋がったんだと思うんですが、自分も京都の緑の多い場所で育ったからすごく共感するものがあったんです。田舎の風景の中にストリートスタイルの壁画が存在することってその頃はあまりなかったので。相当新しいなって思いました。都会や街の方がかっこいいっていう風潮も今より強くあったと思うし、当時のバーンストーマーズの動きが、今でいうミューラルムーブメントの走りになっているのではと思いますね。
―デイビッドとの出会いが、ミューラルを意識するきっかけになったのですね。
99年にデイビッドに会ったときに初めて「ミューラル」という言葉を教えてもらったんですよ。それは「メキシコ壁画運動」が生んだミューラルのことでした。ミューラル自体、もっと昔から存在していた事もそれまであまり気に留めてもいなかったし、ストリートと密接している絵ってスプレーで壁に描くグラフィティしか知らなかった。そして使うツールは別にスプレーじゃなくてもいいし、ブラシでもローラーでも良いっていう自由なスタンスは当時の自分には勉強になりましたね。日本にいる時はストリートではリーガルかイリーガルかとかの話から、スプレーでなければ駄目なんじゃないかとかなんとなくの風潮がある気がしたり、勝手なイメージを持っていたけどけど、別にそういうわけじゃないんだ、もっと自由ですごくオープンな表現で良いんだってニューヨークに来て思いました。さらにハードコアにグラフィティやっている人も、スタジオで立体を作っている人も、みんな相互にリスペクトしあって横に繋がっているのもいいなと。それにはすごくポジティブな印象を受けて、この感じなら俺もいけるって思って広がっていったんです。その感覚を得られたこと、ニューヨークに行って自分のスタイルを掴めた事、バーンストマーズに参加した事、そしてSASUと出会った事、その辺りが全て99年に起こったんですよね。
―KAMIという名前の由来ってあるんですか?
それはスーパー馬鹿馬鹿しいですよ(笑)。当時中一でスケートボードに乗ってて、同じスポットで一緒に滑ってた子の中に小学生もいたんです。うちの兄貴が『こち亀』をすごく好きで読んでいたんですが、たしか52巻か53巻のなかで、両さんがロボット警官に向かって「俺のことを神様と呼べ」っていうシーンがあるんですよ。それを読んですぐに、その子達と鬼ごっこしている時に「俺のことを神様と呼べ」って言ってしまったばっかりに、その子達から毎日神様って呼ばれだしたのが始まりです(笑)。電話がかかってきても「神様いますか~!?」って(笑)。他のスポットに行っても大声で「神様~!」って笑顔で呼んでくるじゃないですか。それでどこに行ってもあだ名が「神様」になって、そこから年月と共に削ぎ落とされてKAMIになったんです。スケーターのあだ名なんてノリで付いたってのは多いんじゃないですかね(笑)。ちなみにその小学生だった子はジャイアンて言って、99年のニューヨークでも一緒だったし、今でも一緒に滑りますね(笑)。
―めちゃくちゃ面白いエピソードですね。それではそれらの90年代を経て、改めて、今回の新作の見どころを教えてください。
まず、HITOTZUKIの作品とのコントラストはつけたいなと思いました。HITOTZUKIでの共同で制作する思考から、ソロの作品の思考に切り替えるのに結構時間が掛かりました。自分の良さってなんだろうって改めて考えて、自己分析の時間が結構ありましたね。また今回の展示ではより人との繋がりを感じたいと思い、自分も含めた全ての人が経験できる共通のテーマって何だろうって考えたんです。そしてそれは“時間”なのかなと。誰もが時間を感じる事ができるし、誰もが過去の出来事、現在の状況、そして未来への可能性を繋ぐ時間軸というラインの上にいるのではないかと思い、過去、現在、未来と3つの時間軸をキャンバスの形状で表すことをきっかけに展開していきました。また、壁に描く時は毎回場所のシチュエーションが違うので、描くモチーフが変わらなくても大きな違いを見せることができるけど、どうやって展示として新たなアプローチができるのかと考えた時に、支持体の形を変化させることで、外の壁に向き合うのと同じように自分が描きたいと思える、ワクワクできる新鮮なアプローチができるのではと思い、今回はスペースに対してどのようなバランスで入れるのかを、更に追求してみようと思ったんです。
―自身のスタイルはそのままに、支持体を変化させたのですね。「余白」や「間」が印象的だと感じました。今回の作品も全てフリーハンドで描かれているようですが、変形キャンバスの形を楽しんでいる感じが伝わってきます。
そうですね、自分らしい形が表現できたので色々と次に繋がるイメージが湧きましたね。ちょっと言い方がおかしいかもしれませんが、自分では絵を描いているつもりがないというか、絶妙な線引きが存在していて、情報量的に絵になり過ぎないようにすることを意識しています。今まであまり言ったことはなかったんですが、SASUからはアンビエントとか、インストゥルメンタルみたいだねって言われたりもします。自分自身でもそういうイメージはあって、音楽が好きでビートからインスピレーションを得ている事も多いので、日々の背景に流れるように、視覚に与えるバランスを大事にしているというか、日常の中での調和を意識した作品として存在したいと思い制作しているんです。でもそういうスタンスで制作しつつも、山並みのようなランドスケープを意識している作品もあります。今回ちょっとした気づきがあったんです。京都に住んでいた頃、いつも加茂川沿いの街道を北上していました。加茂川を挟んで民家があって、その先には大文字とか比叡山が見えていて、夜だと月が見えたのかな。めちゃくちゃ気持ち良い道で、本当によく通っていたんですが、制作している時に作品の原風景の一つはそれなのかなという事に気が付きました。
―スタイルを変えずに同じ作風を続けている理由を教えてください。
これまでいろんな人に会っていくなかで、一つの事を追求している人の分厚さに魅力を強く感じたことがあり、自分もそういう向き合い方をしたいと思ったのが切っ掛けかな。ただ、変わらないことが大事なんじゃなくて、逆に時代と共に進化して変えるべきところは変えて、より研ぎ澄まされていくのを目指している感じですね。形だったり、塗り方だったり、新しいことを取り入れたこともあるんですが、自分らしからぬことをやると結局嫌になっちゃうんですよね。その時は気が付かないんですが、脱線していた自分が見えるというか。結構なエネルギーをかけた割には、今までの作品の中に入れられない。それは一時期の自分の中の気の迷いとか、そういうことに惑わされていただけかもしれないと後になって気付くんです。それはスケートボードでも結構同じ様に感じた事があって、スタイルがあるとか自分を貫いてる人って最初は変な感じがするんですよ。技術的に上手いとか下手とかじゃなくて味わった事のない雰囲気があるというか。その人の内面が体の動きとして現れ、そこに情熱を感じる。その信念みたいなものを垣間見た時に、何か唯一無二の個性を感じ、人としての魅力が輝いて見える一瞬があって、それが素晴らしいと思うんです。セッションが終わって家に帰っても、頭の中にその余韻が残っているんですよね。作品に関しても同様で、瞼に焼きついちゃう質感というものがあると思っていて、そういうものに惹かれますね。スケートボードを通じて学ばせてもらったことを、自分の作品を創る時にも同じような姿勢で反映できればいいなと思っています。
―以前、ストリートアートとは何だと思いますか? という質問をさせていただいた時に、「スケートボードとかグラフィティとか具体的なものではなく、人の内面に芸術性を感じる」と仰ってました。今の返答を聞くととても腑に落ちました。これからも唯一無二のスタイルを貫いて欲しいです。
内面に芸術性を感じるっていうのは、自分はこれで行くって信念をもっている人のことを言ったのかなと思います。自分がやるべき事を自分自身でよく理解している。元々持っている個性がありのまま出ているものに芸術を感じるし、ストリートアートとか関係なしにそういう生き方を貫いている人からインスピレーションを受けますね。
自分自身もこのまま描き続けていけるように引き続き精進していきたいと思っています。全ての道は繋がっている、そう信じているので。