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SASU

「自分探し」から生まれた、唯一無二のシンメトリーな世界

Interview: Hidenori Matsuoka
All Artworks: ©︎SASU ©︎HITOTZUKI

パートナーであるKAMIとのアーティストユニットHITOTZUKIでは、ポスト・グラフィティ/ストリートアートの旗手として世界中に壁画を描き、多くの企業コラボレーションなど幅広く活躍しているアーティストSASU。長年に渡り第一線で活躍を続けてきたSASUが、ここにきて21年振りとなるソロでの個展「Self.help」を開催するに至ったという。ここでは改めて、彼女自身のルーツや創作活動の軌跡を振り返りながら、世界を魅了するシンメトリー作品が生まれた起源や、活動の根底にある内に秘めた想いを聞いた。

Shirasaki Ocean Park, Wakayama, 2024

―これまでに何度か取材をさせていただいていますが、今回はソロでの個展ということで、改めて生い立ちなどから伺ってもいいですか?
私の出身は八王子で、祖父母が農家をやっていたのですが、父親がその敷地内でバイク屋を始めました。母は庭で様々な花を育てていたので、大自然の中に常にメカがあるという、ちょっと変わった環境で育ちました。遊び場がバイク屋の作業場の前で、タイヤをテーブルにしておままごとをしたりとか、前を流れる川でザリガニを捕まえたり、裏の山で探検したり。自然には恵まれていましたね。

―とても楽しそうな環境ですね。
ただ、父親が厳しかったのでコンプレックスだらけだったんですよ。父はおもちゃを全然買ってくれない人で、「手作りがいいだろ」みたいな、そういうタイプだったんです。ファミコンも買ってもらえないし、うちはキリスト教じゃないから、という理由でクリスマスプレゼントもなかったりして。年子の三人兄弟で兄と弟の真ん中で育ったのですが、いつも自分たちで何かを作って遊んでいましたね。海に行っても、みんなはハイビスカス柄のかわいい浮き輪とかを持ってるじゃないですか。でもうちは真っ黒なタイヤのチューブなんですよ(笑)。

―さすがにタイヤのチューブは変わってますね(笑)。
今思うとちょっと面白いとは思いますけどね(笑)。皆んなが持ってる流行りのものが欲しかったんですよ。中学生の一時期、家が手狭になったからっていう理由で、裏にある祖父母のいる本家に一緒に住むことになったんですけど、そこは薪で焚く五右衛門風呂だったんですよ。おばあちゃんが火を焚いてお湯を沸かして屋外の小屋でお風呂に入るんですよ。そんな人周りにいないじゃないですか? だから学校に行くとバーベキューの匂いがするとか言われて本当に嫌でしたね(笑)。だって“朝シャン”が流行りはじめた思春期にですよ(笑)。その頃の親友が、いい意味で全然目立たない普通の子だったんですが、それがすごく羨ましかったです。私は何にもしてないのに、変わってるって言われたりして。目立たない、浮かない存在に憧れていましたね。

―子供の頃から絵を描いたり、創作することは好きでしたか?
そんなコンプレックスのある生活の中で、サンリオの『いちご新聞』を初めて読んだときに心の拠り所になったんです。冒頭にいちごの王様からのメッセージがあり、そこには複雑な幼少期の気持ちに寄り添うようなことが書いてありました。さらに『いちご新聞』にはオランダなど、海外の街並みなどの写真や情報も載っていて、キャラクターもフィリックスとかもいて、その頃はインターネットもなかったから、海外の情報がすごく刺激的でしたね。キティちゃんのイメージが強いと思うんですけど、マニアックなキャラクターが沢山いたんですよね。作者も紹介されていて、どういう想いでそのキャラクターが作られているのかも書かれていたり。何よりも、私が夢中になったのが読者同士の繋がりでしたね。『いちご新聞』には掲示板というものがあって、今でいうSNSの役割をしていたページなんですが、“文通しませんか?”とか、その掲示板に投稿して、他府県のお友達と繋がったり、同じ趣味の子を集めてクラブみたいなものを作って会員を募集したりできるんですよ。私もそこでクラブを作って、会員になってくれた人に家のコピー機で作ったZINEのような『Pom-P(※fig. 1)』という会報誌を送ったりしていました。会費は切手で送り合ったりしていましたね。それを小学校6年生の頃から2年くらいやっていました。それが絵を意識的に描いた最初の経験ですね。その時に作ったZINEの一部を、今回の個展で展示しようと思っているんです。

Pom-P, 1989 (*fig. 1)



―当時作っていたZINEをまだ持っているんですね。
高校生ぐらいの時に、急に恥ずかしくなってほとんど捨ててしまったんですが、気に入っていたのか、少しだけ取ってありました。その時代を大人になってから辿ってみると、Keith HaringやAndy Warhol、Roy Lichtensteinなどのポップアートが日本で流行していたんですよね、多分その流れで、サンリオ以外にもオサムグッズとかお菓子のきどりっことか、コミックアートのようなビジュアルをよく目にしていたんですよね。中学では少女漫画が流行っていて、漫画を描くのにスクリーントーンっていうドット模様のシートを使ったりして、同人誌を作ったりするんですけど、それをキャラクターやデザインに使ってZINEを作るっていうのが、いちご新聞の読者層の中で流行っていたんです。スクリーントーンを使うのが大人っぽく感じて、色々なロゴを模写してみたり、憧れて使ってました(笑)。

ーその後、高校生の頃などはどういう学生生活を送っていたのでしょうか?
うちは親の方針で塾も禁止、勉強もしなくていい、だったんです。テストの前の夜に勉強していると父親が電気を消しに来るんですよ(笑)。だから大学進学とかも考えたことなかったんです。とにかく他の国の文化に興味があったので、旅行の添乗員になろうと思って、高校を卒業してからは旅行の専門学校に進みました。冬休みとかはペンションに住み込みでスキー場でバイトしたり、資格を取って、ツアーの添乗員のアルバイトをしてスノーボードばかりしていました。その後、理由はよく覚えていないんですが、突然お金を貯めて自分でマウンテンバイクを買ったんです。それまでスカートしか履かなかったのに、髪もバッサリ切って。多分このままじゃダメだみたいな、若い頃の自分探しみたいな感じだったと思います。それで縁あって、緑山スタジオでやっていたBMXのショートトラックレースに通うようになったんです。父のハイエースに自転車を積んで、2年ぐらいかな? 続けていたんですが、夏のスキー場でダウンヒルのレースをやったときに鎖骨を折ってしまって。これ以上先に進むためにはトレーナーを付けたりもっと本格的にトレーニングしないとダメかもなって思って、自分は怖がりだし、あまり向いていないんじゃないかなと思いましたね。

ーマウンテンバイクやBMXに乗っていたとは知りませんでした。
あまり言ってないですからね(笑)。女子ライダーも少ない時代だったので、スポーツドリンクの雑誌広告にも出たことがあるんですよ(笑)。後から思うと、子供の頃に父親にモトクロスのレースにしょっちゅう連れて行ってもらっていたんですよね。ディズニーランドには行ったことないけどモトクロスのレースには行ってた。でもそんなのなんの自慢にもならないから封印してたんですけど、潜在意識にあったのかもしれないですね。私がやっていたのなんて、ほんとに短い間だったんですけど、嬉しいことに、その当時知り合ったライダーの人達とは今になって繋がることも多くて、壁画を見に来てくれたりするんです。

ーマウンテンバイクの後は何を始めたのでしょうか?
その後は一応MTBを持って、友達が住んでいたカナダのウィスラーに行ったんですが、結局スノーボード三昧の生活を送るようになりました。寿司レストランで働いたり英語を勉強したりして充実した生活を送ってたのですが、1年ちょっと過ぎた頃に、突然弟から電話が来て、母親が末期ガンで余命3ヶ月と言われたから帰ってきてと連絡があったんです。その瞬間に、それまでやってきたことが全て崩れ落ちて、日本に戻って母の代わりに家事をする生活が始まりました。急にそういうことが起きると気持ちが飛んじゃうというか、しばらくボーっとしていましたね。

―それまでアグレッシブに活動していた生活が急に一変したんですね。
父は家事を一切したことがなかったし、祖母も同居していたので、私は一生ここで家事だけをやっていかなきゃいけないんだって落ち込みましたね。ただ、このままじゃダメだと思って、近所の図書館に行ってヨガやセラピー、心理学関係の本を読み漁りました。そして、小さい頃にやっていた好きなことをやろうと、ZINE活動の時にやっていたような詩や絵を描き始めたんです。そのうち、親戚のおばさんがこのままだとダメになるからもう一回カナダに行ってくればって送り出してくれたんです。そしてカナダ人の友達の実家にホームステイさせてもらい、英語の学校に行ったりBMXのレースに出てみたりしていたんです。その友達の家にはもう一人日本人の男の子がホームステイしていて、彼らがグラフィティをやっていたんですよ。私がZINEにイラストを書いてるのを見せたら、外にも描いたほうがいいよって誘ってくれて、それで3人でスプレーを買いに行って、グラフィティショップにノズルを買いに行ったりして色々と教わり、自分のタグを作ったり、スケートパークに描きに行ったりしたんです。

Shirasaki Ocean Park, Wakayama, 2024
―いよいよ外に絵を描き出したのですね。
帰国してから、当時渋谷のSTORMYとかに置いてあった『AWAマガジン』っていうフリーペーパーがあって、そこに私も絵とかポエムを描いて投稿するようになりました。そこにはまだ出会う前のKAMIくんやダイコンくん(DISKAH)率いるOWNの皆んなが描いたりしていましたね、98年くらいかな。同時期に六本木で「Flow Of Harmony」というイベントがあり、DJとサウンドシステムがあるラウンジ空間で、みんなが持ち寄ったアートを展示するDIYイベントを、ダブセンスマニアのラス・タカシくんが中心になって開催していたんです。AWAマガジンの参加者も皆んなそこで展示していて、私も「センソメトロ」という「愛の意識を測る装置」みたいな作品をペーパークラフトで作って展示していましたね(笑)。そのラス・タカシくんは占星術に詳しくて、色々教えてもらって仲良くなって、後日ハングアウトする約束をしたんですが、その当日に、「やべー、やっちゃった。今日KAMIっていう友達がニューヨークに行くから成田空港に送る約束してたんだ」って言い出して、「一緒に行ってくれない?」って言われて。彼の投稿を見て知っていたのでOKして、急遽私も一緒に見送ることになったんです。私も偶然その数日後にカナダに残していた荷物を取りに行く予定だったんですけど、たまたまニューヨークから帰ってくるKAMIくんと私の帰国日が一緒だったんですよ。するとラス・タカシくんが「じゃあ2人ともまた成田まで迎えに来てあげるよ」って言ってくれて、帰国日に空港で待ち合わせするためにKAMIくんと連絡先を交換したんです。それが出会いですね。

―すごい偶発的な出会いですね。引き寄せられたとも考えられますが。
それが、帰国日に再会したんですが、お互いに全然素な感じでした。その日のKAMIくんの頭の中はもう完全にニューヨークになっていましたね(笑)。ラス・タカシくんがせっかくだから帰りがけに観覧車があるから寄ろうよって提案してくれたんだけど、KAMIくんは早く帰って自分のアートワークをやりたいみたいな感じで(笑)。それでOWNハウスに送っていったんです。OWNハウスはスケーターたちが共同生活している一軒家だったんですが、OWNのスケーターたちって私が今までに思っていたスケーターのイメージと違ったんですよね、愛とか思いやりだとか、日頃の行いが滑りに繋がるみたいな話をしていて、不思議なスピリチュアルな感じがしましたね。そしてKAMIくんに私が作っていたZINEとか、カナダで描いたグラフィティの写真を見せたら、「一緒に描こう」っていう話になって、最初はステッカーに描いたりしていました。

―ついに共同作業が始まったのですね。それが何歳のときですか?
1999年なので25歳の年ですね。それからの展開は早くて、KAMIくんがニューヨークのDavid Ellisと、ノースカロライナのタバコ納屋に描くBarnstormers(バーンストーマーズ)っていうプロジェクトをやるから一緒に行こうと声かけてくれて。だけどニューヨークに着くとみんなはブルックリンに壁があるから描きに行くって出かけて行ってしまい、私はDavidに、「この板に何か描いてていいよ」って言われて1人で彼のスタジオで待つことになったんです。ニューヨークには、Doze GreenとかJosé Parláとかすでに自分のスタイルが出来上がってる人たちが沢山いたし、自分らしい表現をするためには何を描けばいいんだろうって追い詰められていましたね。私はみんなとは初対面だったから、認めてもらえなければ私には壁はないんだろうなって思っていました。それでスタジオで一人で考えて、まずは好きな形を描こうとリンゴのモチーフを四方向に配置して、いわゆる曼荼羅のように描いたんです(※fig. 2)。みんなが帰ってきてその絵を見るなりDavidが「超いいじゃん」ってポジティブな反応をくれて。ノースカロライナに持っていってバーン(納屋)に貼ろうって言ってくれたんです。

―そのおかげでBarnstormersとしてノースカロライナでも壁がもらえたんですね。
ただ、この壁描いていいよってもらえた壁が、当時の私にはめちゃめちゃ大きくて(笑)。ハシゴで登るには高すぎて怖いから「半分くらいまででもいいのかな」ってKAMIくんに相談したら、「後で写真を見たときに上まで描けば良かったって後悔するんちゃう?」って言われて。とにかくKAMIくんも自分が描くことに夢中で、私のことはだいぶ放置気味だったんですよ。こいつ誘ったくせにって思いながらなんだか腹が立ってきて、こうなったら絶対上まで描いてやる~って思いましたね(笑)。そのときに描いたのが「Kumosha(クモーシャ)」(※fig. 3)なんです。その時、ALIFEのJESTとかKRも来ていたんですが、「これはプロジェクターを使って描いたの?」って驚かれて。その時に、左右対称に大きく描くことって意外と誰にでもできる事じゃ無いのかもって思って。無意識というか、自分の中で自然に描いていたから、私のスタイルはこれ(シンメトリー)なのかもしれないって思いましたね。

―リンゴの曼荼羅やKumoshaって、追い詰められた状況でいきなり生まれたんですね。その後どのようにしてHITOTZUKIになるのでしょうか?
ニューヨークを2000年以降結構な頻度で行き来していたのですが、日本ではSATAN ARBEIT(サタンアルバイト)という大阪のブランドが「マザーホール」でイベントをやったんです。それがポスト・グラフィティの流れとして、日本のライブペイントのシーンで初めての大きなイベントだったと記憶しています。会場に巨大な壁を立ててBarnstormersの皆んなをアメリカから呼んだんです。そこに私とKAMIくんも参加していました。それがすごく好評だったみたいで、2回目にはロンドンのScrawl Collective(スクロウル・コレクティブ)のアーティスト達が来ました。そこで『Scrawl book』を作ったRicと知り合って、『Scrawl 2(※1)』という本を作るから出ないかと誘われて、ヨーロッパ方面に知られるきっかけになっていったんです。『Scrawl book』はグラフィティやストリートアートの更なる進化という感じで、Mr Jago、Will Barras、Kid Acne、Mr Scruffなどのドゥードゥルスタイルだったり、SheOneなどのアブストラクトなブラシストロークのスタイルや、Deltaなど斬新なアーティスト達が掲載されていて、とにかくとても新鮮だったんです。その時期には世界各地でポスト・グラフィティ的なグループ展が多く開催されていて、日本ではそういう動きをしている人が他に居なかったという事もあって、私たちはよく呼んでもらっていたんです。2004年にイギリスのマンチェスターの美術館で「ILL COMMUNICATION」っていうグループ展に参加したり、アムステルダムで「KAMI+SASU展」をやったり、ベルリンの『LODOWN』と繋がったり、一気に世界の人たちと繋がっていったんです。その頃の日本ではナオミくん(Naomi Kazama)が「G.A.S. -EXPERIMENT!(のちの大図実験)」を中目黒に立ち上げて、Shepard Faireyを呼んだり、彼もマッケンローのポスターをペイスティングしてて、そこに私たちも通って作品を残したりするうようになったんです。そのうちKAMIとSASU、2人で一つの壁を描いてもらえないかと言われることが多くなって、だったらユニット名を付けようよ、ということで、2人の名前の漢字に日と月があったので、HITOTZUKI(日と月)名義で活動するようになりました。でも最初は全然浸透しなかったんですよね。それまで男女2人で一緒に描くっていうことも前例が無かったですし、KAMIくんに頼っているだけと思われて、ゆるい感じで見られたり、当時はほとんど男性ばかりのシーンだったので、色々と苦労はありましたね。

―最初はSASUKE名義で活動していたようですが、そもそもなぜSASUKEなのですか?
17歳頃、地元の居酒屋でバイトしていたのですが、半被にポニーテールという姿で働いてたら、そこのママに忍者の「猿飛佐助」みたいだって言われて(笑)。その話を知人に話したら「今日からお前はサスケだ」って呼ばれるようになったんです。それでしばらくはSASUKE名義で活動していたんですが、海外ではSASUKEの“KE”が言いづらいらしくて、省略されていつの間にかSASUになっていました。SASUKEだと「男だと思っていた」って言われることもあったので、自分でもSASUと呼ばれるほうが落ち着きますね。

―HITOTZUKIとして一緒に作品を描く上で役割を考えたりしましたか?
男女2人で描く時に、やはり女性らしさとかを考えるわけです。私にしか描けない色はやっぱり女性っぽい色かなとか。だけどバイク屋の娘として男兄弟の真ん中で育った自分には、花のような作品を描くとしてもまずはピンクとかじゃなくて青がしっくりきたんです。あとはストリート、パブリックスペースでの強度と場所との調和のバランスも考えました。シーンの中でも今までに無かったもの、強いけど優しい、ジェンダーレスな色、花なんだけど青っていう、そのバランスが最適だと思ったんです。

―HITOTZUKIといえばその“青”が印象的ですが、最近インスタグラムで2007年に桜木町に描いた壁画が青が生まれた瞬間だと書いていましたね。
当時の桜木町の壁は純度100%のグラフィティのエリアで、何人ものライターにより描き重ねられてきたその壁に描くということは、とても重みがあることだと思っていました。生半可なものは残せないなという緊張感があったんです。だから、タイトに色を合わせてバシッと決めたいねと2人で話しました。ただ、ニューヨークや海外に行ったときに、ストリートにはイカついものだけじゃなくて、ほっこりする優しい作品とか、すごくミニマルなものだったり、マテリアルも色々な手法があったりして、その多様性が素敵だなと感じていたんです。だから私たちも、次のステップに行くために新しい世界観を出せたらいいなと試みていたんですよね。そこで、黒ベースに青というカラーコードだけ決めて、あとはお互い何描いてもいいっていう設定にしたんですよね。

“SAKURAGICHO ON THE WALL”, Yokohama, 2007

―それではシンメトリー作品を描き続けている理由を、自分なりに分析するとどう思いますか?
壁に一つの作品を描くということ自体が、やはり軽々しいものではないという想いが前提としてあります。ちゃんとしたい、というか誠意を持って描きたいっていうのかな。じゃあ描かなきゃいいじゃんって話だし、KAMIくんには、「こんなに大きいの描いてるくせにそんなに気にしてるの?」って言われたりもするんですが…(笑)。でも「描きたい」っていう気持ちとのバランスを取るためには、その壁やその地域に対しても失礼のないように、と思っているんです。祖父母も戦争の経験もしていて、昔ながらの家で育っているから、お客様が来たらちゃんと正座してお迎えしなさいって言われたり、お彼岸があったり仏事があったり、神棚も全部左右対称に整えたり。ちゃんとしようっていう気持ちがシンメトリーに現れているんだと思います。そして、母のことでお先真っ暗で八方塞がりになった時に見た花からも影響を受けています。私の花の様な作品は、0から1になる過程を表現しているんです。

―最近だと渋谷のアロープロジェクトの壁画が記憶に新しいですが、和歌山で描いていた壁も大きそうでしたよね? あれだけ大きな壁画制作をよく続けられているなと本当に関心します。
今年50歳になり、体調の変化もすごく感じたりして、いつまで描けるのかななんて思うこともあるんです。大自然の環境だったので、フリーハンドでありのままの今の自分で、どこまで描けるのかチャレンジしてみようと一人で描いてみたんです。振り返ってみると自分で描いた気がしないんですよ。「私どうやって描いたんだろう?」って不思議な気がします。集中しているせいか描いている間の記憶が結構飛んでしまってるんですよね。

―HITOTZUKIとしては個展を行なっていますが、ソロとしては21年ぶりの個展となるそうですね。今回の個展のテーマや内容について教えてください。
「Self.help」というタイトルで、自分を助けるというテーマです。私の活動も、自分が自分であるために、自分を助けるために始まったものでした。カナダから帰ってきてどん底になって本能的に始め、そしてそれが自分を救ってくれた。今度は自分だけじゃなくて、人にもそういう苦しみから解放されてほしいという気持ちを込めて「Self.help」というテーマにしました。今の時代、病もうと思えばいくらでも病めちゃうと思うんです。私は今でも葛藤しながらですが、自分なりにいろいろなことを乗り越えてきた経験があるので、頑張ってる人や若い子に、何かを伝えられるといいなっていう想いがあります。

―「どんぐり」を展示するそうですが、どういう意図なのですか?
私は子供の頃、どんぐりを空き瓶につめてソリに乗せて、近所で寂しそうだなと感じた家の玄関に、その瓶を置いて回っていたんです。それは、「このどんぐりで元気出してね」というか、元気が出るはずと勝手に思い込んで、私がやらなきゃって思っていたんです(笑)。アホっぽいですが、弟と従姉妹2人の4人の名前の頭文字からつけた「とてゆふ」というチームで、私がリーダーになって本気で良かれと思ってやっていたんです。その行為を振り返ると、それこそが私の今のアート活動の起源なんじゃないかという思いに至りました。街を歩いていて気になる壁を見つけたときに、「この壁に羊が一匹いたらいいな」と思って描いていることと動機が似ているんです。今回の個展では、私の制作活動の根源を表現したいと考えていたので、その象徴として「どんぐり」を制作して展示することにしました。

Photo: HIDDEN CHAMPION

―誰かのために、その場を良くしたいという気持ちが根底にあるのですね。
私は小さい頃から人に何かをあげたいと思う願望が強かったんです。それがなぜなのかって精神分析していくと、幼少期に親が忙しかったり構ってもらえなかった自分の寂しさみたいなものを、同じような境遇の子に対して自分が代わりにすることで自分を癒していたんですよね。

―このタイミングで個展を行おうと思った理由はどういうものですか?
改めて、まずは自分を知ってもらう展示をしたいと思ったんです。出産後HITOTZUKIの制作にほぼすべての時間を捧げてきましたが、もしかしたらHITOTZUKIを知っている人も、私のパートが具体的にどこなのか知らない人もいるんじゃないかと思ったんです。私が描くものがなぜこの花のようなモチーフなのか、なぜここに羊が描いてあるのか。この機会に自分の根底にある思いを伝えられたらいいなと思ったんです。私が22歳の頃、母親が49歳という若さで亡くなったこともあり、もともと健康やメンタルヘルスなどに強い興味がありました。コロナ禍で現場制作が休みになったタイミングの2021年に、カウンセラーの資格を取ったのですが、それから興味が更に強くなってきて、自分が学んだことを作品に反映できないかと考えていたという事もあります。今年は母が亡くなった年齢も超えることになり、私なりの新たなチャレンジをしたいという思いもあって、今回個展を開催させて頂く事になりました。

―それでは最後にメッセージをお願いします。
私が真剣にシンメトリーの作品を描いているとみんな笑ってくれないんですよね(笑)。でも私は、自分にダメなところがあるから、なんとかしたくて真剣に描いてきたんです。そうやってバランスを取ってきたのですが、最近は崩れたり、もがいたり、そんな部分が表出してきて、新しい形が生まれてきています。やっぱり、気を抜いてリラックスするのも大事ですよね。ぜひ展示にお越しいただき、クスッと笑ってもらえたら本望です。

【展覧会情報】
SASU個展 「Self.help」
会期 : 2024年12月20日(金)〜 2025年2月8日(土)
時間:13:00 – 19:00
※日・月・火・祝日は休廊となりますのでご注意ください。
※冬季休廊 : 2024年12月29日(金)〜 2025年1月7日(火)
会場 : SNOW Contemporary
住所:東京都港区西麻布2-13-12 早野ビル404
URL:http://snowcontemporary.com
Instagram:@snow_contemporary

SASUのプロフィール

SASU(サス)は、90年代より国内外の壁画制作などで幅広く活躍するアーティストユニットHITOTZUKI(ヒトツキ)のメンバーとして知られる女性アーティスト。幼少期より、デザインやキャラクターに興味を持ち、10代の頃からサンリオからストリートカルチャーまで幅広く影響を受けながら独自の世界観を構築し、色彩豊かでシンメトリーな構成を通じて深い精神性を表現している。また、日本のストリートアートシーンで数少ない女性アーティストのパイオニアとしても知られており、男性中心のシーンにおいて、シンプルで記号的なモチーフを描くSASUのスタイルは斬新であり、ストリートアートに「調和」や「安らぎ」という新たな要素をもたらした。

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