
Interview with
COOK ONE
絵画で壁を調理するかのように
世界中を縦横無尽に動き回る「COOK」
大阪を代表するグラフィティアーティストCOOK ONE。20代の頃から何度もLAに渡りグラフィティのスキルを磨いてきた彼は、世界各所に壁画を描きながら、これまでに数多くのブランドや企業へアートワークを提供するなど幅広い活動を繰り広げている。ここ最近の例を挙げるだけでも、「大阪・関西万博 2025」、「ルイ・ヴィトン渋谷メンズ店」、「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」など、名だたる案件で壁画制作を行っており、もはや彼の活動はストリートなどのジャンルを超えた広がりを見せている。今回はHIDDEN WALL™企画のために壁画を描きおろしてくれたCOOK ONEに改めてインタビューを行なった。
グラフィティとの出会い、単身LAへの道
──まず出身などバックグラウンドから教えてもらえますか?
大阪出身です。子供の頃は悪いことばかりしていましたね。中学を出たくらいで暴走族とかやんちゃなことばかりやっていました。その後先輩の影響でレゲエに興味が沸いて18歳くらいからレゲエDJをやり始めました。その頃のレゲエのフライヤーって手書きで描かれてた時代なんですけど、それがやりたいと思ってフライヤーを作り出したんです。その流れで先輩がやってるレゲエバーで働くことになったんですが、そのバーの壁にグラフィティが描いてあったんですよ。それを見た瞬間に「俺にもできるやん」って思ったのがグラフィティとの出会いですね。
──レゲエバーでグラフィティを知って、それからどういう行動に出ましたか? 街に出て描き出したのでしょうか?
当時は本当に情報が無かったのでグラフィティがどういうものか全く分からず、知っている英単語をただ描いたりしていましたね。でもすぐにとりあえず本場を見たいと思ってLAに行きました。それが20歳のときです。それでいろんな壁を見て回ってクラいましたね。当時はベニスビーチも大荒れの時代で、周りはグラフィティだらけでコテンパンにやられました。そこで覚えてきたものを日本に帰ってから自分なりにやり始めたんです。その時はスプレーのノズルも無かったので、カルバンクラインの香水のノズルをつけてみたりとか(笑)。自分なりに試行錯誤していましたね。
──それからいよいよ本格的に描き出したんですね。
大阪の街に見よう見まねで描いてましたね。あとは地元のダムにトンネルがあったんですけど、そこは誰も来ないので絶好の練習場でした。当時は今のスタイルとは全然違くて、グラデーションを使ったリアルなキャラクターとかポートレイトを描いていたんですよ。すると知り合いからシャッターに「自由の女神」を描いてくれって頼まれて。そして描いた翌日そこに行くと、シャッターの横の自販機に昨日まで無かった「VERY」ってタグが描いてあって、「なんや! VERYってヤツおるぞ!」って、徐々に大阪のライター達と出会っていく感じでしたね。446っていうレゲエDJの人を通して当時大阪で活動していたライター達を紹介してもらって大阪のシーンに入っていったんですが、あの頃は同時期にグラフィティがすごく盛り上がりはじめていたんです。
──絵はもともと好きだったんですか?
絵が上手いという自覚はなかったですけど、小学校とかで絵を描くと絶対に賞はもらっていましたね。今思えば、暴走族の頃も単車の色を塗るのを頼まれたりもしていたし、上手いと思われていたのかもしれません。カッティングシートを切って重ねて『ウォーリーを探せ!』のステッカーを作ってみんなの単車に貼ったりしていた思い出がありますね。いろんな形のウォーリーを作っていました。眼鏡とか切るの大変でしたね(笑)。そういう意味では絵や創作は好きだったのかもしれません。

──そのステッカーの手法はすでに今のスタイルと通ずるところがありそうですね(笑)。その後LAでの活動が多い印象ですが、どういう経緯でそうなっていったのですか?
24歳の時に2回目のLAに行ったんですが、道に迷ってダウンタウンの細道に入ったんですよ。するとそこで壁画を描いているヤツがいたので話しかけて、日本の「マジックインキ」をあげたりしたら仲良くなって一緒に描くことになったんです。するとそいつがBashersっていうクルーのヤツで、自分もそのクルーに入ることになってそこから年に2、3回はLAやSFに行くようになりましたね。その頃には日本でもアメリカでもグラフィティ中心の生活になっていましたね。
──その頃って仕事は何をしていたんですか?
大阪市内にデザイン事務所を構えていました。5人くらいで一つの事務所を借りて、専門学校のDMを作ったりとか紙媒体のデザインをしていましたね。それでお金が貯まったらアメリカに行くっていう生活を10年くらい繰り返していたんです。

LAのグラフィティレジェンド OG SLICKとの出会い
──LAのOG SLICKとのつながりが深いような印象ですが、どのような出会いなのですか?
昔、とんねるずの木梨憲武さんが、DJ YUTAKAさんと一緒に演歌でラップするような番組をやってて、それをたまたま見たんですよ。スクールバスが2台並んでて、木梨憲武さんとグラフィティバトルみたいなことをやってて、その対戦相手がSLICKとMEN ONEだったんです。それがSLICKを見た最初なんですけど、「こいつ、すごい!」って思ってファンになったんですよ。それからしばらく経って、SLICKが友人づてに俺のことを知ったみたいで、彼がやっている〈DISSIZIT!〉ってブランドでサポートしたいって連絡があったんです。めちゃくちゃ大ファンやしすぐにでもOKって言いたかったんですけど、まだ一回も会ったことないし一緒に描いたこともないのにスポンサーを受けるわけにはいかんと思ってLAまで会いに行くことにしました。そこから2週間くらいみっちり一緒に描いたりして仲良くなって、〈DISSIZIT!〉に入ることになったんです。それから意識がもっとLAに夢中になって、ほとんどLAにいる生活になっていったんです。
──本格的にLAに拠点を移したのは何歳頃ですか?
30代半ばから8年くらいはLAをほぼ拠点にしていましたね。LAのデリシャス・ヴァイナルの壁にSLICKと一緒に壁画を描いたんですよ。その流れでデリシャス・ヴァイナルで働かせてもらうことになって、「Delicious PIZZA」のロゴを作ったり、J Dillaの弟のIlla JのYancy Boysのレコジャケを作ったりとかいろいろやらせてもらうようになったんです。
──SLICKと一緒に描いた思い出とかあれば教えてください。
SLICKとは結構な数を一緒に描いているので思い出もたくさんあるんですが、その中でも2014年に手塚プロダクションとのコラボレーションで描いた「鉄腕アトム」が印象深いですね。それがすごくバズって結構人生が変わった感じがしました。それがきっかけでLAでも名前が知られてやりやすくなりましたね。
──では作品のことを聞きたいのですが、代表的なキャラクターである「COOKちゃん」が生まれた経緯やテーマを教えてもらえますか? そもそもCOOKの名前の由来は?
まずテーマですが、「COOKちゃん」はいたずらっ子でいろんな国に落書きして回ってるヤツっていう設定です。犬のお巡りさんと豚のお巡りさんが敵で、いつも追いかけっこしているんです。『トムとジェリー』のグラフィティ版みたいなイメージですね。名前の由来は、自分の父親が料理人で料亭を営んでるところから来ています。自分は高校を中退してから親の店を手伝っていたんですけど、親父と合わなくて喧嘩してレゲエの道に行きました。だから料理屋の後を継いだりとかはもうせえへんけど、その代わりに「絵を料理していく」って意味でCOOKにしたんです。たしか21歳くらいからCOOKですね。でも最初の頃はまだこのキャラクターはなくて、グラデーションで自分が想像したキャラクターを立体的に描いたりしていたんですよ。その後徐々にデザイン仕事やクライアントワーク、アメリカでのグラフィティの影響などを経て、今のシェフハットを被ったCOOKちゃんが生まれました。COOKって一目で見て分かるスタイルが欲しくて悩んでいる時期が長かったので、今のスタイルになるまでにいろんなものを経ています。COOKちゃんが出来てからは、COOKちゃんの世界観に合わせてアートを作るようになったのでやりやすくなりましたね。余談ですが、実はCOOKちゃんの前身に「ポリープくん」ていうのもいるんですよ。自分の喉にポリープが出来たときに生まれたんですが(笑)。
──そういう楽しんで作っている感じがとてもいいですね。現在開催している「大阪・関西万博」にも大きな壁画を描きましたが、どういう経緯で決まったのか教えてもらえますか?
今までに大阪市内には壁画を多く描いていますし、大阪で開催される万博だからということで自分に声をかけてくれたんだと思います。万博の会場近くの松原市に2023年にできた屋内スケートパークの外壁に絵を描いていたことも影響しているかもしれません。その壁はとても目立っていて多くの人の印象に残っていると思うので。結果的に自分が描いた幅60メートルの壁はとても大きいし、開会式をやった場所なので目立ってよかったですね。毎日のようにメンションされています。
──今回HIDDEN WALL™の壁画を描いていただきましたが、毎日ずっと描いてましたよね。絵を描くのが本当に好きなんですね。
絵を描くのめっちゃ好きですね。普段も時間があるときはずっと描いてます。朝起きてスタジオに行って、メールの返信とかを済ませたら、後は毎日12時間くらい描いてますね。前まではそこまではやってなかったんですけど、歳をとってきてからはちょっとでも多く描きたいと思うようになりました。より多くの作品を残したいという思いですね。
──HIDDEN WALL™と合わせて個展「THE CHASE FINAL」を8月に行いますが、どういう展示にする予定ですか?
「THE CHASE」という追いかけっこがテーマの展示を、ロンドン、LA、韓国とやってきて、そのファイナルとしてやりたいと思っています。「ストリート」というものを表現しようと思っていて、今までに行ったことのある国の看板とか標識をモチーフにしたり、アメリカのゴミ箱とかポストにタグを描いたものを飾ったり、小屋みたいなマガジンラックを置いたり、空間全体を「ストリート」として表現しようと思っています。昔はリーガルネームが「COOK」でイリーガルネームを「OBSURD(OBS)」と使い分けていたんですけど、もうイリーガルをやることもないので、ストリートに貼られたステッカーとして作品に「OBS」も入れ込んでいます。
──今後の目標ややりたいことがあれば教えてください。
今の目標というか夢は、死ぬまで絵描きでいたいということです。絵描きとして死ぬまでやるっていうことは、死ぬまで自分の絵が売れてお金にならないと続けられないんで、どうやったら一生絵描きでいられるかを考えていますね。アメリカにいるときとか全然飯を食われへん時もあって、朝SUBWAYの一番でかいサンドウィッチを買って半分食べて、夜に半分食べてとか、貧乏をめっちゃやりました。それでもアメリカでグラフィティをやりたい自分がいて、それが逃げ出さずに続けられた理由だったと思っています。そうやって好きなことを続けられたら幸せですね。

グラフィティしか褒められるものがなかった
──そもそもグラフィティのどこにそんなに惹かれたんだと思いますか?
ずっとやんちゃなことをして怒られ続けて、それこそ「生まれてこんかったらよかった」みたいなことを言われるような生活やったんです。でも絵を描き出して褒められることが1個できたんですよ。それが続けられた理由だと思います。これしかないというか、褒められることってグラフィティしかなかったんです。ここ最近、自分の中で作品が一番良い形になってきているので、これからもう一発見せたるぞっていう状況もできてきたと思っています。新たなスタート地点として次に何を目指すのか、みたいな気持ちですね。東京に拠点を構えることも考えているので、新しく自分のことを知ってくれる人達にも、この絵を見てかっこいいって思ってもらえるように活動をしていきたいですね。LAで一旗上げて、日本でももっと頑張って知名度を上げて、もう一回絵の力でアメリカに戻るっていうのも一つの夢ですね。
──では最後に、若いアーティストや読者にメッセージをください。
継続は力になり。やめるな。やめずに残ってるヤツらは、そいつの人生にとって意味があって描かされていると思います。やめたら意味がなくなる。あとは頼まれた仕事は嫌でも一回受けろと思いますね。得意分野じゃなかったら仲間に助けてもらったり、チームを作ったりして、とにかくやれば着地点が見えてくる。永遠に見えない着地点はないと思います。いま何かがウケてバズってるヤツがおるとしても、それをずっとやり続けなあかんと思います。

【展覧会情報】
COOK ONE個展「THE CHASE FINAL」
- 会期 :
- 2025年8月2日(土)~ 2025年8月11日(月)
- 時間 :
- 13:00 – 19:00
※4、5日休廊 - 会場 :
- SORTone
- 住所 :
- 東京都渋谷区神宮前2-14-17[MAP]
- Instagram :
- @sortone_fort