
Interview with OSGEMEOS
現実と夢の境界を塗り替える
「トリトレス」という世界を生んだ双子の軌跡
サンパウロのストリートから生まれ、世界へ広がった双子のアーティストOSGEMEOS(オスジェメオス)。彼らの創作は、現実と記憶と想像が溶け合う独自の宇宙『TRITREZ(トリトレス)』を中心に動き続けている。壁画、ドローイング、アニメーション、そして音楽までも横断しながら、ふたりの手は区別できないほど同調し、創作はまるでひとつの意識の中で展開されているかのようだ。ヒップホップ黎明期の街で育ち、ストリートとの対話を重ねてきた彼らが語る、創作の根源とは。
- Edit_
- Ryosei Homma
- Photo_
- Shuji Goto, WATARI-UM, The Watari Museum of Contemporary Art
双子が共有する、同じ存在という感覚
──まず、ふたりで作品を制作することについて、それぞれの仕事に棲み分けはありますか?
僕たち双子はほとんど“同じ存在”なんだよ。同じスタイルを持っていて、どっちが描いても区別がつかない。彼が何を描こうとしているか分かるし、僕が描き始めても彼にはすぐ分かる。ちょっと奇妙に聞こえるかもしれないけど、本当にそんな感じなんだ。長い間一緒に描いてきたというより、最初からそうだった。同じ世界を見て、同じ空気を吸って、同じ夢を共有して育ってきたからね。

──バックグラウンドについて教えてください。幼少期はなにをしていましたか?
僕たちはサンパウロのカンブシで生まれ育ち、子どもの頃からいつも一緒に絵を描いていた。80年代のサンパウロはヒップホップ・カルチャーが一気に広まった時期で、街中がブレイクダンスやラップ、DJなどで沸いていた。その流れの中で僕らもブレイクダンスを始めたけれど、近所の兄ちゃんたちがスプレー缶で壁に絵を描いているのを見た瞬間に、完全に心を奪われた。「壁に絵が描ける」という事実そのものに魅了されたんだ。だけど当時はグラフィティの背景も歴史もなにも分かっていなかった。サンパウロのBボーイの溜まり場「サン・ベント駅」に通ううちに、他の地域の人たちが情報を教えてくれて、ようやく“壁に描く”ことの全体像が見えてきた。1985、86年頃の話だよ。
──そこから本格的に“壁に絵を描く”ことを始めたのでしょうか?
『Subway Art』を見たとき、「僕たちがやりたいのはこれだ」とはっきり分かった。映画『Beat Street』や『Breakin’』を観て、グラフィティというカルチャーの存在を確信した。それからすぐに壁に描き始め、周囲のライターたちがタグやグラフィティの基本を全部教えてくれた。一度その世 界に触れたら、もう抜けられなかった。子どもの頃はブレイクダンスもDJもラップもグラフィティも全部やっていた。ヒップホップがそのまま僕たちの生活だったんだよ。
──当時のブラジルでは、いわゆるアメリカのグラフィティはどの程度知られていたのでしょうか?
上の世代にもスプレーを使う人はいたけれど、レタリングのスタイルではなかった。フリースタイルのドローイング、ローラーで大きな絵を描くような、キース・ヘリングやバスキアに近いものだった。それに政治的なフレーズを描いているのをよく目にしていた。「Tupinãodá」 というクルーがパイオニアで、彼らの活動が壁に描くという可能性を見せてくれた。ただ、ヒップホップとは直接結びついていなかったね。
──外に出て描き始めた時、困難な状況にぶつかることはありませんでしたか?
80年代初頭のブラジルはまだ独裁政権の影が色濃くて、グラフィティは激しく取り締まられていた。夜中にこっそり描くのが普通で、警察はやりたい放題。本当に危険だったけれど、同時にかなり刺激的だった。街そのものが「描け」と背中を押してくるような感覚もあったんだ。街と対話するために描いていたとも言える。その経験のおかげで都市の仕組みとか境界線、どう動けばいいかを体で学んだ。やがて僕たちは、「グラフィティを禁じる明確な法律がない」と気づいた。小さな抜け穴みたいでグレーだったけど、夜中に隠れて活動することをやめ、あえて日曜日の昼間に堂々と街の中心で描き始めた。すると他のライターたちも続き、サンパウロ独自の“日曜のストリートペイント・カルチャー”が根づいたんだ。僕たちの目標は、人々に「グラフィティは街にとって良いものにもなり得る」って理解してもらうことだった。昼間描くことでそれが世間に伝わりやすくなると考えたんだ。電車のような場所は夜に描く必要があったけれど、街中の昼のペイントは広く受け入れられるようになっていったよ。
「トリトレス」とキャラクターの起源
──あなたたちのキャラクターや世界観はとても幻想的です。どのように生まれたのですか?
キャラクターは、僕たちと一緒に生まれたような存在なんだ。説明するには、生まれる前の記憶まで遡る必要がある。僕たちには“夢に満ちたある場所”の記憶があって、キャラクター達はそこから来ている。風や太陽の光、その世界の色や動き…それら全てを子どもの頃から覚えていて、頭の中では映画のようにその世界が流れているんだ。僕たちはその世界を表現する適切なスタイルを探し続け、キャラクターを描き続ける中で徐々に答えが形になっていった。僕らには不思議な感覚があり、兄弟で同じビジョンを共有していた。それが一体なんなのかはわからなかったけど、90年代の初めには自分たちのルーツを本格的に掘り下げながら、TRITREZという僕らの宇宙について物語をまとめた日記のような本を書き始めた。絵の背景にある“歴史”そのものが突然見え始めたからね。幼少期の体験や新しい思い出が常に記憶の中に眠っていて、それらは尽きることがないから、この物語を描き続けるしか無くなってしまったんだよ。

──キャラクターはどのように変化してきたのでしょうか?
僕たちとキャラクターは一緒に成長したし、今では僕たちの一部のような存在だ。TRITREZの世界を描くと、子どもの頃に体験した雨風の匂いや景色が甦り、キャラクターの歩き方から、風に揺らぐ衣服、そういった情景が自然に浮かんでくる。その世界を表す最適なスタイルを探すため、何年も様々な手法を試し続けた。15ほどの異なるスタイルを経て、現在の形にたどり着いた。黄色いキャラクターへの道のりも本当に長かった。僕たちはキャラクターを深く信じている。服や背景、精神性、歩き方、人との関係性まで、すべてに意味がある。それらは僕たちの想像が現実と対話するための装置なんだ。
──TRITREZと現実はつながっているのですね。
TRITREZには、色鮮やかなキャラクター、美しい場所、圧倒的な自然、美しい木々…まったく別の魔法の世界がそこにある。それらが現実から離れて見えるのは、その世界は完全に僕たちの想像の産物だからだよ。でも僕たちにとっては日常の世界なんだ。僕たちはその世界に住んでいて、その世界から来ていて、人生を終えたらまたそこへ戻るってことも自然に感じているんだ。
──その世界観が“巨大な壁画”へと展開されています。これまで制作した壁画で記憶に残っているものはありますか?
90年代に描いた壁画は忘れられない。約1ヶ月かけて描いたものがあって、滝や風景といった壮大な情景を描き込み、それらはTRITREZと直接つながっていた。というかTRITREZに近づくために、毎日長い時間をかけて描き続けていた。あの時期の壁画は本当に特別だったよ。僕らが初めて巨大な壁画を見たのはドイツで、それはDAIMやLOOMITが手がけた作品だった。彼らはファサード全体を使った巨大壁画の先駆者で、グラフィティの世界でいち早く大規模な壁画を実践した人たちだと思う。それから2002年頃、ギリシャで壁画制作に招待されたとき、僕たちはあえて背景を描かないことに決めた。下地のコンクリートはそのまま残し、巨大なキャラクターだけを描いたんだ。これが史上初の大きなキャラクターの壁画になった。背景を残すことでキャラクターの存在感がより強調されたんだ。僕たちはプロジェクターを使わず、すべてを手描きで仕上げる。それにより技術が磨かれるし、難しさこそが自分たちを成長させてくれるんだ。
──TRITREZの世界観は独創的なアウトラインで構成されていますよね。かすれたような細い線のラインが特徴的です。
最初から細い線のドローイングをしていて、「これをグラフィティでも再現したい」と考えたのが始まりだった。ある日、Futura 2000やパリのTCACREWの作品を見て、「スプレーでもこんな細いラインや円、抽象的な形が描ける」という可能性が見えたんだ。ただ、当時のブラジルにはグラフィティショップなんてないし、選べるキャップもなかった。スプレーは自動車用のものしかなく、品質もかなり低かった。だから、かすれたような細いアウトラインは道具から生まれたわけじゃなく、指のコントロールから生まれた技術なんだ。ノズルをほんのわずかに押して、かすれる寸前の圧で描く。キャップの種類がなかったおかげで、逆にどんなキャップでも細い線を描ける技術が自然と身についた。スーパーに行って、デオドラントスプレーのキャップとか、いろんなものをこっそり持ってきて試したりもしたよ。僕らは70年代に生まれ、80〜90年代の必要な道具がほとんどない環境で育ったことは、むしろ僕たちのスタイルを育て、形作るのに役立ったと思う。即興で工夫し、発明し、創造性で生き延びる必要があったんだ。

──グラフィティのためのスプレーに出会った時のことを覚えていますか?
1999年に初めてドイツに行ったとき、Molotow、Montana、 MTNのスプレーを見て本当に衝撃を受けた。でも僕たちは現地になにがあるのか分からなかったから、ブラジルから自動車用のスプレー缶を大量に持って行ったんだよ。ドイツで描いた最初の壁画も、全部ブラジル製のスプレーを使った。現地の人たちは「そんなスプレーで描けるの!?」って驚いていた。でも僕たちにとっては道具が悪いのは当たり前だったから、むしろ「ちゃんと噴射するスプレー」の方が新鮮だった。
──では、ストリートやミューラル、ミュージアムでの活動はどう分けているのですか?
分けているようで分けていないんだ。僕たちの内側にあるものを表現するために、必要な“道具”がいくつもあるだけ。それはアニメーション、ドローイング、彫刻、グラフィティ、大型インスタレーションといったさまざまな手法。表現方法に違いはあれど、根幹はすべてつながっている。展覧会という空間は、僕たちの世界を立体的に変換できる場所。それはグラフィティではない、グラフィティはストリートや電車で行う“違法のボミングやタグ”だから。美術館の中では、TRITREZを3Dで構築する感じなんだ。観客が没入できる場所を作る。それは僕たちの世界の出自に観客を近づけるための機会と考えているよ。

──以前ミュージアムの展示で、立体化したレターを本棚のような家具にしていたのが印象的でした。
レタリングは建築のようなものなんだ。構造、美しさ、スタイルが必要で、そこにはメッセージ性も宿る。ただ描けばいいわけじゃないし、名前というのは自分そのものを表す。それを壁に描けば、その場所は永遠に変わる。たとえ消されても痕跡は残る。だからこそ、とても大きな責任を背負うことになる。自分の名前は、美しいスタイルで、しかるべき環境に置くべきものだと思う。誰かがグラフィティを嫌っていたとしても、良いスタイルは必ず誰かに届く。子どもでも年配の人でも、誰かの人生が少し変わることだってあるんだ。
価値の本質と見る側の姿勢
──アートとその価値をどう捉えていますか?
価値は自分たちが決めるものではなく、見る人の姿勢で決まると思う。美術館に飾られているかとか、高額で売れるかなど、そういう条件が揃わないと価値を感じない人もいるけど、僕たちにとっての価値は子どもの頃から始まってるんだ。家で絵を描いたとき、親が「きれいだね」って言ってくれた瞬間。それに尽きる。街中のグラフィティはそれ自体に価値がある。お金がその価値を保証するわけじゃない。そこにはスタイル、行動、エネルギー、歴史、描く人がいる。それだけで十分だ。価値っていうのは“自分の目の開き方”によって変わるものだと思う。美術館に価値を見いだす人もいれば、ストリート・ボミングに価値を感じる人もいる。僕たちにとっては、街中のグラフィティそのものに大きな価値を感じ、ストリート・カルチャーを深く尊敬してるんだ。

──影響を受けたアーティストはいますか?
ブラジルのSPETOとバリー・マッギーの存在はとてつもなく大きい。SPETOは80年代初期からすでに突出していて、独自のスタイルを持っていた。当時のブラジルではそれは本当に稀有な存在だった。思い返すと僕らの出会いは“ケンカしに行った”ことから始まった。Bボーイの溜まり場で、「お前らの地区に絵を描いてるやつがいるぞ」って聞いて、ぶっ飛ばしてやろうと思って乗り込んだ。でも彼のスタイルを見た瞬間に完全にノックアウトされ、一瞬で友達になったよ。彼の圧倒的なオリジナリティ、スタイルへの姿勢は僕たちの基盤をつくったんだ。バリーとは1993年に出会い、彼は技術も文化も惜しみなく共有してくれた。アメリカのグラフィティやボミング・カルチャーをブラジルに持ち込んだのは彼だと言っていい。
──DJや音楽制作も行なっていますよね?
80年代初期から音楽に深く関わってきた。レコード収集から始まり、90年前後のDJカルチャーに衝撃を受けて本格化した。様々な理由でDJから離れた時期もあるけど、2015年頃に再び戻り、現在は多くのフェスやクラブでプレイしている。最終的には「聴きたい音は自分たちで作る」ことに行き着き、今では音楽の制作も行うようになったんだ。

MATRIXでの制作
──そうした音楽はビジュアル面にも影響を与えますか?
制作中にも音楽はよく聴くけど、「自然そのものの音」を聴くのも好きなんだ。MATRIX(僕たちはスタジオをそう呼んでいる)に行って、音楽を流さず、風や鳥の声を聴きながら描き続けることもある。他にも海はすごくて、本当に驚くほど多くのことを語ってくる。海辺に座ってスケッチをすると、時間がゆっくり流れて、海がいろんな記憶を呼び覚ましてくれるんだ。風も同じ。山に座って風の中にいると、自然の要素…風、水、火、土…そうしたものに直接語りかけられているような感覚になる。それがそのまま創作へつながる。自然が僕たちのフィルターとなって、森羅万象に対する理解が深まっていくんだ。基本的な制作はMATRIXで、ドローイングも音楽もアニメーションも、そこでの想像の中で生まれる。そこはサンパウロではなくTRITREZの中にいる感覚なんだ。
──今回は展示のために来日されていました。トークショーは満員で、席に座れない人で溢れていましたね。日本で出会うもの、オーディエンスなど、どんな印象を受けましたか?
サンパウロには大きな日系コミュニティがあるけれど、僕たちが感じている“日本”はもっと個人的で深いんだ。日本の人たちの、立ち止まって細部まで見る姿勢は本当に特別で、僕たちにとって大きな励みになっている。日本ではマンガや図画教育とか幼い頃から“描く文化”が根付いているからこそディテールに敏感なのだと思う。サンパウロは常に忙しいから、その感覚を失いやすい。僕たちは日本人街リベルダージの近くで育ち、80年代の日本のテレビの特撮ものに夢中だった。段ボールで背景セットを作って遊んだ経験が、空間づくりの原点になっている。日曜日に父とリベルダージへ本を探しに行った思い出もインスピレーションの源だね。そして個人的な理由として、僕たちが赤ん坊のとき、母親は母乳がほとんど出なかったんだけど、日本の人たちからミルクを援助してもらったことがある。小さくて健康に問題があった僕たちにとって、それは大きな助けだった。そうした体験も含めて、日本には特別な縁と愛情を感じているんだ。
──最近、街でアクティブに活動している若いライターをどう見ていますか?
新しいスタイルを見ると今でも胸が高鳴るよ。独自のスタイルを持つ人を見ると、その人が本気で取り組み、これから何か新しいものを生み出そうとしているのが分かる。とくに電車のグラフィティにはたまらない魅力がある。街中でタグで覆われた光景を見ると、「街の声」が響いてくるように感じるんだ。各国で規制が強まっていても、グラフィティは止まらない。ライターは描き続けるし、新しい世代は必ず道を見つける。例え警備が厳しく、センサーやカメラだらけで外に描くのが難しい状況でも、それでもライターを止められない。理由はシンプルで、このカルチャーが次の世代へ確実に受け継がれていくからだ。どの時代にもそれを継ぐ者は必ず現れるし、その歴史を生かし続ける奴らは絶えないと思うよ。
──今後、成し遂げたいことはありますか?
ずっと映画を作りたいと思っている。僕たち自身の歴史を語る映画を、アニメーションで制作する構想があって、すでに少し動き始めている。ワタリウムの展示で流れているアニメーション作品は、ブラジルのチームと一緒に作ったものだ。僕たちは自分たちのドローイングを“動くもの”として捉えているから、アニメーションになることはとても自然だった。アニメーション制作は大変だが、僕たちの世界とは本質的に相性がいい。ドローイング自体が最初から“動きのあるもの”で、ストーリーボードのような感覚で描いているからね。大規模な映画を作るには大きなチームが必要だけれど、幸い信頼できる良いチームがいる。今の目標は“本格的な映画”をつくることだね。











