Issue #74
Fall 2024
90年代のニューヨークのグラフィティシーンに貢献した“ESPO”ことスティーブ・パワーズ。
Interview: Ryosei Homma
精密にバランスの取れたレターを武器に、IRAKの一員として90年代のニューヨークのグラフィティシーンで大きな功績を残した“ESPO”ことスティーブ・パワーズ。
2000年頃よりグラフィティでの経験を糧に、タイポグラフィーを主とした次の段階へと作風を昇華させ、日々の生活のなかで思いついたアイデアやワードを、メモ帳から巨大なビルに至るまで自由自在にアウトプットしている。
そんなESPOがブルックリンで手掛けるショップ「ESPO’S ART WORLD」の原宿店として「ESPOKYO」をオープンするとのことで、その経緯や目的について、彼の心の内を聞いた。
―まずあなたの幼少期について教えてください。子供の頃、絵を描くのは好きでしたか?
毎日、夢中になって絵を描いていたよ。コミックが大好きで、グラフィティと出会わなかったらかなり良い漫画家になっていたはずだと思うよ。グラフィティは俺の漫画家としてのキャリアを台無しにしたんだ(笑)。
—グラフィティとの出会いについて教えてください。
フィラデルフィアで生まれ育つ中でグラフィティはいたるところにあって目にしていたけど、幼い頃はそんなに好きではなかった。母にどういう意味かと尋ねると「ただの落書きだよ」と言われていたよ。最終的に俺はそれに魅了されることになったが、当時は情報がなかったからそれが一体なんなのか理解できていなかったんだ。
—ではグラフィティを始めたきっかけはなんですか?
グラフィティを始めたのは1984年、16歳の頃から本格的に始めたんだ。1983年のある日、違う学校に通っていてしばらく会っていなかった友人から「お前はまだアートが好きなのか」って質問されて、「そうだ」と答えると彼は見せたいものがあると言って俺を電車の車両がたくさん停まっている所に連れて行き、そこの大きな壁に描かれたグラフィティのピースを見せてくれた。そのクレイジーなアートワークに衝撃を受け、同時に「これは俺がやるものだ!」って思ったんだ。それから何年も経った今でも、彼とはとても良い友人だよ。そのピースを見た瞬間から俺の人生は変わった。俺はずっとアーティストになりたかったけどアートは嫌いだった。学校で教わるドローイングのようなデッサンの練習はイヤだったし、そんなアートが大嫌いだった。でもグラフィティは俺にライン、デザイン、カラー、バランス、タイポグラフィを教えてくれたしそれは完全に自由だった。先生は俺にアートを教えることはできなかったが、グラフィティの経験から自分自身でアートを学んでいったんだ。
—その後、ESPOという名前で活動を始めたんですね。名前の由来はなんですか?
ESPOはSteve Powersを短くしたような名前なんだ。より速く、より素早く。ノリに乗った感じでちょっと悪ガキなイメージかな。近所で描き始めてからは週に4日は描いていたね。始めてからは一度もやめなかったよ。そしたら次第に近所で認知されるようになり、そこからさらに続けていると都市部でも知られるようになった。当時の俺にとってグラフィティが自分らしく生きるための方法だったんだ。16歳でイリーガルなグラフィティをはじめたとき、俺は「犯罪を犯した」と認識はしていたけど、自分のグラフィティをアートにしようとはまだ思わなかった。当時はあくまでもグラフィティを描きたかっただけなんだよ。
—今のスタイルを自身ではどう感じていますか?
今描いているスタイルはサインペインティングに近くて、これは言語みたいなものなんだ。俺がグラフィティに取り組む方法はアイデアを思いつくこと。ペンキを用意してそのアイデアを描きに行くからね。君の後ろにある絵にとてもよく似ているよ。今は毎日、東京で目を覚ましてアイデアを思いつきこれらの絵を描いた。だからこの絵は捉え方は全く違うけど、描き方はグラフィティにとても似ているんだ。アイデアがありそれを深く考えてひとつのアートワークに仕上げる。そのアイデアを描くという点ではグラフィティにとても似ているよ。
—ではグラフィティに重点を置いた活動から、アーティストとして自分のペインティングスタイルを切り替えたきっかけはなんですか?
アーティストとしてやっていることは、ライターとしてやっていたことと変わらないと思う。無許可で絵を描いて、相手が許すか忘れるかを期待するのではなく、向こうから壁に描いてくれと頼まれるのを待つんだ。無名からスタートして自分を知るために絵を描き、いつしか自分が何者であるかを知り、そして世界的に有名になるんだと思う。その知識を使って何をするかで、人生の進路が決まる。王道も邪道もどちらも穴だらけで、正解はなく、自分を自由にするものなら何でもありなんだ。
—今のスタイルを自身ではどう感じていますか?
今描いているスタイルはサインペインティングに近くて、これは言語みたいなものなんだ。俺がグラフィティに取り組む方法はアイデアを思いつくこと。ペンキを用意してそのアイデアを描きに行くからね。君の後ろにある絵にとてもよく似ているよ。今は毎日、東京で目を覚ましてアイデアを思いつきこれらの絵を描いた。だからこの絵は捉え方は全く違うけど、描き方はグラフィティにとても似ているんだ。アイデアがありそれを深く考えてひとつのアートワークに仕上げる。そのアイデアを描くという点ではグラフィティにとても似ているよ。
—まるで日々の日記のようですね。
そうなんだよ。グラフィティも作品も俺にとっては常に日記なんだ。だから年を取れば取るほど作品は複雑になっていく。人生はどんどん複雑になるから理にかなっているよね。グラフィティの好きなところはシンプルでエレガント、そして直接的で大きなインパクトがあるところだよ。
—今はグラフィティに対してどういうアプローチをとっていますか?
大好きだけど生活していかなければならないから続けていくのは大変だよ。夜中にグラフィティ活動をして、昼間に生活しながら絵を描く、その2つの道が交わることはないんだ。でも自分がやったことと共存しなければいけないから、自身で責任を持って誰に対してもフェアでなければならない。だから物事が複雑になるんだ。俺たちはみんな60、70年代のフィラデルフィアやニューヨークで生まれたグラフィティから派生したものだ。政府はこれらの都市でグラフィティを厳しく取り締まり破綻させたが、本来グラフィティはすべてを解決するものだった。
だから東京のように美しく機能的な都市を思い浮かべながら、「この辺に落書きをしよう」と思うのは俺にとっては難しい。全く違う雰囲気なんだ。俺は2000年ぐらいから東京に来ているけど、その頃のグラフィティの扱いはコールガールのステッカーや売春の電話番号とかそんな感じだったと覚えている。それは違法なノイズ信号みたいなもので社会の外側にあるちょっとした情報だった。でも今はアーティストがその役割として、街の隙間に絵を挟み込むのがすごくいいと思うんだ。それはまるで小さなメッセージを残しているような感じ。正直に言えばどんな都市でも昔のようにクレイジーになれないというわけではないけどね。現役のライターはみんなそうしているし尊敬もしているんだ。だけどもし自分がそれと共に生きていかなければならないなら、もう少し戦略的になる必要があると思う。とは言っても、もちろんグラフィティをするのは好きなんだけどね。
—グラフィティの活動とギャラリーワークの間に違いはあると思いますか?
高尚なギャラリーのオープニングパーティーでは、アートに興味のない俗物的な人たちが集まって、キテレツなパーティーをやってるだろ。それが理由で俺はいつまでもストリートに居続けているんだ(笑)。
—あなたのゴールはなんですか?
より良いアーティストになりたい。それと同時により良い人間になること。人々にとって楽しくて、重要で役に立つアートワークを作りたいと思っている。アートワークというのは本来は役に立つものではないよね。通常は単なる装飾品だけど、俺が作るものの多くはそれが人々の共感や感情につながり役立っているんだ。
—まさにサインペインティングのようなものですね。あなたがアートワークの中に言葉を使っていることも理解できました。
サインペインティングはとても楽しいし、言語を創造し、言語を伝達するための個人的な方法なんだ。そして俺にとっては言語を使ってアートワークをできるだけ明確にすることで、不思議なことに、逆にそのどれもがそれほど明確なアートワークではないようにも思えるんだ。きれいなレタリングは助けになると思っているよ。
—そうですね、一見シンプルなのに、深い意味があるようにも見えます。これらの言葉はどうやって選んでいるんですか?
生きていく日々の生活から引き出しているんだ。だから毎日耳を立てて人々が話しているのを聞いているよ。海外に居て周りが何を喋っているのか理解できないときは、ただ自分の考えに集中するんだ。たまに聞き覚えのある言葉が聞こえてきたらそれに集中することもある。なにもわからない場所にいると、自分のことをよく理解できるようになるのがいいところだと思う。
—以前出版業界で働いていたと聞きましたが、どういったものを作っていましたか?
『On The Go Magazine』という雑誌を俺が発行していたんだよ。Ari FormanとJimmy WentzがデザインしたものをMax Glazerが編集し、AJ ROKがオールドスクールのヒップホップの編集者だった。俺はZINEとして始めたんだけどAriが雑誌にしてくれて、18号まで発行したんだ。これまで作られた雑誌の中で2番目に良い雑誌だよ。いや、もしかしたら3番目かもしれない(笑)。
—この「ESPOKYO」ができた経緯はなんですか?
1999、2000年ぐらいから何度も東京へ来ていて、この場所ではGallery TARGETと共に過去に2度くらい個展をやったことがあるよ。俺のアートワークは他のどの都市よりも東京にある看板などのグラフィックのシンプルさに直接的な影響を受けているんだ。だから東京へ戻ってきてそのスタイルを再度考え直す動きはすごく自然なことだと思ったんだ。この地で生まれたものだから、この地に戻り、この地で創作することは正しい選択ではないかな。俺がやっていることの多くは東京のものから視覚的にインスパイアされているからね。だから物理的にここにいて作品を制作し、俺がここに存在することでこの先に何が起こるかを体感してみたいんだ。うまくいけば言葉を学ぶことだってできるかもしれない。単なる観光客ではなく、日本らしさを感じながらこの土地に貢献できることを願っているよ。俺は日本が大好きで、この国は世界の様々な国々に希望を与えていると感じているんだ。日本は多様な物事を集団的に進めることができるエネルギーがあるようだ。問題を解決しながらお互いを気遣うという方法は、他の国も学ぶべきところがあると思う。とりあえず1年間在日できるビザを持っているから、アパートを借りて1年間このお店で働こうと思っているよ。今は本気でアパートを探しているところさ。
—あなたにとってこのお店はどんな存在ですか? この店を通して、どういった影響を与えたいですか?
現段階では始めたばかりではまだわからないし、俺たちがここに店を構えた理由こそ、それを理解するためなんだ。10年前にブルックリンでESPO’s ART WORLDを始めたように、東京ではESPOKYOをスタートさせた。ここのコミュニティのドアを開け、近隣住民に会って彼らが何を求めているかを学び、そして彼らに受け入れられる行動をしていきたい。だから今ここにあるものは、俺たちが家から持ってきて袋を開けたものに過ぎないんだ。しかし君の後ろにある作品やこれから作る作品は、コミュニティとは何か、近隣とは何か、そして俺たちがそこへ何をもたらすことができるのか、より直接的に示しているんだ。ニューヨークでオープンしたときは5年ぐらい掛かってしっくりくるようになった。でも今回はできればそんなに長くはかからずに、自分たちがどうすれば役に立てるかを考えたいね。それが俺たちの目指すところかな。世界中で売っているような国際的なブランドにはなりたくないんだ。この土地にとって新鮮でユニークな存在でありたいと思っている。そしてここで育ったという実感が持てるものでありたい。それを一番大切にしているんだ。俺が描いているカラスの絵もそういったことを表していて、カラスは東京に数多く生息していて、文字通り東京では大きな鳥だよね。俺にとってカラスは優秀で問題解決の方法、都市環境、騒音、彼らの作る音、美しさにおいて東京を代表する存在なんだ。
—ESPOKYOのオープニングでは、来場者が持ち込んだものを実際にシルクスクリーンで印刷していましたね。このオープニングはとても面白い試みだったと思います。反響はいかがでしたか?
全てのプリントはブルックリンのESPO’s ART WORLDの地下で働くMattとErikaとMatthewという俺のスタジオの仲間がプリントしているんだ。ライブプリントはコミュニティが一体となる素晴らしい方法で、コミュニティが困っているときにちょっとしたものを提供することができるんだ。当日、この店の近くのファミリーマートでは一部のシャツが売り切れたんだ。俺たちは原宿を応援し、楽しみ、友人を作るためにここにいる。ライブスクリーンプリントがそれを可能にしてくれるんだ。今は東京にいた時に描いた絵のプリントに取り掛かっているところだよ。まずは柴犬の絵(You Smell Nice)からプリントしようかな。
—では最後に、あなたのモットーは何ですか?
俺のモットーはたくさんあるけど、「個人的なものを普遍的なものに、普遍的なものを個人的なものにしたい」ということが最も大きいかな。興味深いことに東京のビジュアル言語の多くがかわいいキャラクターと隣り合わせだと感じた。塩と砂糖を混ぜたような、カワイイとシリアスな情報を混ぜたようにも見える。そういう組み合わせが最高なんだ。