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Yoshi47

明るさと暗さ、強さと弱さ。
両極を見つめる優しいモンスター。

Interview: Hidenori Matsuoka

明るさや暗さ、強さや弱さ、優しさや冷たさ。両極にも見えるそれら内面の部分は、誰しもが持ち合わせているもの。そしてそれらは、ほんのわずかな表情やしぐさからも、隠しきれず感じとることができるものなのかもしれない。ブレイクダンス、グラフィティ、メッセンジャーなど様々なシーンでの経験を持ちながら、常にその両極の感情を描き続けているアーティストyoshi47。サンフランシスコや東京での生活を経て、現在は愛知県の南端に位置する渥美半島に拠点を構える彼に、いままでの経歴や現在の思い、そして作品について話を聞いた。


—子供の頃はどんな少年だったのですか? 絵は描いてましたか?

幼稚園のころから絵を描いたりして楽しかった記憶はあります。決定的だったのは、小学5年生のときに夜中に『ギルガメッシュないと』を見たくて、親の目を盗んでリビングに行ってテレビを付けたら、実はまだ10時くらいで、適当に番組を変えてたら『笑ゥせぇるすまん』をやってて、喪黒福造を見て衝撃を受けたことです。それまで平和な漫画しか見たことのない人間が、平和じゃ無いものを見てしまった気がして。そこから今に至る口がワッてなっている絵の先駆けのような絵を描き始めました。それがおそらく自分の中で“描きたいもの”が生まれた最初だと思います。小学校でそういう絵を描いて女子に配って「気持ち悪い」とか言われるのが気持ちよかったり(笑)。掲示板とかに勝手にピンで刺したりして、みんなが気持ち悪がったり、先生が怒っているのを見たりして楽しいなと思っていましたね。

—その後に影響を受けたものはありますか?

高校生になって本屋に行ったときに、5000円くらいのかっこいい本が置いてあって、それを立ち読みしていたらスプレーの落書きが載っていたんです。簡単にできると思ってホームセンターでスプレーを買って真似してみるんだけど全然同じようなラインが描けないんですよ。「なにこの違い!?」ってのめり込んで。その頃ブレイクダンスもやっていて、練習に行く途中でいろんな壁に描いたりとか、それが自分のグラフィティの始まりですね。その頃は『笑ゥせぇるすまん』のことなんか忘れて、いろんなグラフィティライターの真似のようなものを描いていました。タグとかピースの真似をすることで精一杯でしたね。ただブレイクダンスに一番集中していたので、絵やグラフィティというものは自分の中心ではなく趣味以下のようなものでしたね。

—本気でブレイクダンスをやっていたのですね。

大学に入ったら交換留学をする話があったので、「カリフォルニアでブレイクダンスを学びたいんです!」って言ったら、「君は英語を学ぶとかじゃなくてブレイクダンスを学びたいんだね」って。そして音楽もない状況で「踊ってみてください」って言われて(笑)。もう踊るしかないじゃないですか(笑)。でも無事受かってアメリカに行くことができたんです。それが20歳くらいですね。ただ、ブレイクダンスを夢中でやってたらサンフランシスコで踊っているときに肩を壊しちゃって。病院に連れていかれて手術しなきゃだめだって言われたんですけど、保険の使い方も分からないし、その場でお金を払うことも出来ない。それで親にも言わずに自分の判断で手術をしなかったんです。それで脱臼の癖がついてしまって、もう一生踊れないよって言われてしまいました。

—いきなり挫折を味わうわけですね。

それで夢を諦めなきゃいけないと思ったときに、趣味で楽しんでいたグラフィティを復活させようと思ったんです。その頃にスペイン語のクラスを受けなきゃいけなかったんですが、つまらなくて代わりに油絵のクラスを受けたんです。すると先生がめちゃくちゃ褒めてくれたんですよ。美術の学校に行ったほうがいいって。「いや俺、交換留学生なんですけど(笑)」って。いやいや推薦状を書いてやるって。でも結局僕は留学生の身でアメリカで違う学校に入るわけにもいかず、期間が終わって日本に戻りました。でもそれから真剣にいろいろと考えました。それで僕が出した答えは、日本の大学を休学して、アメリカの美術の学校に行くということでした。でも美術の学校に行って将来何になるんだと言われたりもして、グラフィックデザイン学科なら仕事があるんじゃないかということで、デザインを学ぶという前提でアメリカに行くことにしたんです。働きながら学校に通うという約束でした。

—改めてアメリカでの生活が始まるわけですね。

学校に入ると、かわいい女の子が「今日イベントがあるんだけど行かない?」って誘ってくれて、行くに決まってるじゃないですか(笑)。そしたらライブペイントというものをやっていて、初めて見て、「うわ、凄い!」と思ったんです。生でペイントして観客がいて、それが終わったらバンドが演奏して、DJがいて。こんなイベントあるんだって。そしたらその女の子がイベントのオーガナイザーを紹介してくれて、「来週自分で描いた絵を持ってきなよ」って言われて。売っていいからって。「え? 俺の絵を売る?」っていまいち分からなくて。でも翌週自分で描いた絵を持ってイベントに行ったら100ドルとかで買ってくれる人がいるんですよ。「俺の絵を買う人がいる」ってことに驚いて。ただそれはオーガナイザーも同じだったらしく、普段はそのイベントで絵はあんまり売れないらしいんですけど、あの日本人の絵が売れてるって驚いたらしく、「来週はライブペイントやってみない?」って。それで一年目にしてとんとん拍子で絵が売れるようになったんです。自分ではよく分からない状態でした。そういう状態がしばらく続いていくんですが、それはサンノゼというアメリカの中でもローカルな地域での人気であって、その後サンフランシスコという大都市に行くと、知らない素晴らしいシーンがたくさんあって太刀打ちできないという状況に陥っていくんです。

—人生はそんなに甘くないということですね。サンフランシスコではメッセンジャーもやっていましたよね? どういうきっかけですか?

大学を卒業したあとに、サンフランシスコ郊外のデイリーシティにある会社に就職が決まったんです。ただ出社日に運悪く車が壊れてしまい、就職先に車を貸してくれないかと連絡したんですが、お前に貸す車はないから来なくていいと言われていきなり職を失って(笑)。それで一人でなんとか生活しなきゃとスーパーでバイトを始めたんです。その頃Y君という人に出会って、「メッセンジャーをやれば一年で家を建てられるらしいよ」って嘘を言われて、「マジすか」って完全に信じちゃって(笑)。就職先もないし、「なんかやらなきゃいけないんすよ」って言ったら、ジャンクヤードで集めたパーツでギコギコ鳴るような自転車を組んでくれて。Y君のルームメイトのサムが働いているメッセンジャー会社を紹介してくれるっていうことになり次の日にその会社で待ち合わせをしたんです。会社に入ると「なんの用だ?」って言われたんですけど、「サムと待ち合わせしてるんだ」とだけ伝えて待っていました。でも待てど待てどサムは来ないんですよ。それで聞いてみたら「今日はサムは働く日じゃないよ」って言われて「だからお前はなんなんだ」って言われて。「いや、僕はメッセンジャーをやりたくて、サムにここに来たら働けるからっ言われて来たんですよ」って伝えたんです。すると「無理だよ」って言われて、「え〜!」って(笑)。「働けるって聞いたから来たのに」って。「そんな話は知らない、早く出ていけ」って。それで一旦帰ったんですけど、なんか俺に対する態度が嫌だなと思い、ここで引き下がったら駄目だと思って次の日も行ったんです(笑)。でもまた「意味が分からない、出てって」とまた門前払いされて。それを一週間くらい繰り返したんですよ。すると一週間目くらいに、それまで不在だったそこの会社の社長が突然大量のワインの箱を持って現れて、「お前も運ぶのを手伝え」と言われて。そのワインをカウンターに並べ出したかと思うと「じゃあ今から試飲会だ!」って(笑)。たぶん200本くらいあったんですよ。社長に「お前も飲め…、ところでお前は誰だ?」ってなって。ここで働きたくて一週間も通ってるんですってことを説明して。「日本人ならRK知ってるか? KATSU知ってるか?」って聞かれても僕はメッセンジャーのシーンのことも誰のことも知らなくて、「お前はメッセンジャーをやりたいのになぜ日本人のメッセンジャーの名前を一人も知らないんだ」って言われて。「いや、メッセンジャーになれば一年で家を建てられるって聞いたから来たんだ」って言ったら大爆笑されて。それまで頑なに俺を追い返していたディスパッチャーのジョンって人も爆笑してて、「お前は家を建てられると思ってずっと毎日来てたのか?」って。その爆笑を得たことによって「明日から来い!」ってなったんです。

—メッセンジャーをやっていて良かったことはありますか?

メッセンジャーをしていると、チャイニーズマフィアの事務所に行って銃を向けられたり、「泥棒を追いかけて!」って声を掛けられてなぜかそのまま追いかけたりとか、映画のようなすごくディープな生活ができて楽しかったですね。グラフィティライターにも出会うし、ギャラリーをやっている人や、スケーターにも出会う。メッセンジャーというものがストリートの文化に根付いていて、いろいろな人たちと遊ぶようになったのは大きいです。サンフランシスコの中でもディープな人たちと仲良くなれたし、メッセンジャーがきっかけで地に足をつけたような活動ができるようになったんです。

—サンフランシスコでの生活も定着しつつあるなか、日本に帰国することになった経緯を教えてください。

雨が降る寒い冬の日に、スコッチを教えてくれた65歳くらいのメッセンジャーに誘われてとあるバーで一緒に飲んでいたんです。どこのデリバリー受付の女の子が可愛いとかっていうだけのくだらない話をしてたんですが、お腹が減ったのでパスタを作ってやるっていうから彼のアパートへ行ったんです。すると彼のキッチンには乾燥パスタと塩が大量に入った瓶しかなくて、冷蔵庫にはなんか腐った感じのものしかなくて。とりあえず具の無い塩パスタを食べさせてもらったんですが、その時に「この街でずっとメッセンジャーをやっててもダメだな」って悟ったんですよ。ちょうど同じ時期に、MASHというフィックスドギアクルーが出来はじめて、サンフランシスコで映像作品のプレミアを成功させたんです。そのプレミアから半年くらい経った頃にMASHのメンバーから「次は東京に行くけど一緒に行かないか」って連絡があったんです。それでいい機会だからMASHが東京に来る前に東京に住んでやろうと思って。昔フォトグラファーのPaiちゃんが「こんなに汚い日本人は見たことない」って言いながら、サンフランシスコで配達中の雨でずぶ濡れになった俺の写真を撮ってくれた時に一緒にいたRKさんが、「東京に来たらうちの事務所に寄りな」って言ってくれてたのを頼りにするという甘い考えでそのまま東京へ行き。その後Y氏からMASHのみんなが来たときに色々アテンドしてあげてって頼まれて、東京で落ち合ってみんなを案内する役みたいになったんです。俺は愛知出身で東京には住んだことなかったからなんにも知らなかったんですけどね(笑)。裏原宿の有名な人たちを次々と紹介されたり、街でも「yoshi47さんですよね」って声を掛けられたりして。俺はこんなにチヤホヤされる立場じゃないんだけどなって(笑)。

—それでは話は変わりますが、Yoshi47の作品のテーマやコンセプトはどのようなものですか。

自分なりに人間の世界を反映させているんです。例えば、サンフランシスコのメッセンジャーの世界は外からはきらびやかに見えていたけど、裏側では人が死んだり、ドラッグがあったりというめちゃくちゃな部分もありました。陰と陽があまりにもはっきりしすぎている世界で、それがものすごく自分のなかで引っ掛かっていて。そういうものを表現したいと思っていたら、すでに自分の中でそういう世界が好きだっていうことは小学5年生の時点で判明していたことに改めて気づいたんです。自分のオリジナルスタイルはなんだろうって考えたときに、暗さと明るさ、笑ってるんだけどどこか暗い。根本ではそういう人間が誰しも持っている二面性の部分を表現しています。

—拠点を東京から愛知に移したのはどういう心境の変化があったのですか?

それまでストリートでグラフィティをずっとやってきたから、部屋で絵を描くときもスプレーを使わなければいけないとか、変にストリートというものに拘り続けていた自分がいて、もがき苦しんでいる状態が長くありました。自分が作った作品が売れて生活できてる。でもたくさん売れているわけではない。このまま東京に住み続けていいのか。自分はいま幸せなのかと。東京の小さいスペースで絵を描いているけど、昔はアメリカでもっと大きなスペースで描いていたよな、とか。もっと弾けたいなとか。じゃあ外に行けばいい。でも外に描いてもお金をもらえるわけじゃない。そういう葛藤のなかで自分が一番何がしたいのかって考えたときに、もっと大きな所で絵を描きたい、もっと自然と触れ合いたいと思ったんです。あとは、僕自身の性格として、情報が多い場所にいるとすぐに惑わされてしまう部分があることにも気づいていたんです。自分にとって何が必要で、何が必要じゃないかを削ぎ落としていったら、田舎でサーフィンをしつつ、絵を描きながら伸び伸びと暮らしたいっていう欲望にたどり着いたんです。それで都会で住んでいた自分を一度自己回帰する意味で愛知に移住しました。

—移住してから、作品に出てくるモチーフの幅がとても広くなりましたよね。

花瓶や壺、フルーツとか、ここで出会う虫だったり動物だったり。その自然の状態を毎日見ていると純粋に描きたいって思うんです。そう思ったら描かないともったいないじゃないですか。人が求めているからという理由で同じものを描いていけばビジネスとしては成立するかもしれないけど、そんなことをやっていたら僕は一生幸せにはなれなくて、クライアントが喜ぶだけなんです。こんなバカみたいな世界は無いと思ったんです。アーティストだったらもっとわがままにということを念頭に置いて生活するようになりました。自然とのハーモニーを自分だったらどうやって気持ちよく描くか。その結果がここなんです。

—現在の一日のルーティン、そしてどういう生活から絵が生まれているのか教えてください。

サーフィンに行って気持ち良くなって帰ってきたときに、いいバイブスのまま絵を描いています。今日はこれを描きたいなって思ったらそれだけを集中して一個描いて。「あ〜、いい絵描けたな、今日は」って。時間をすごく使ったけど今日はこれ一個だけ。明日はこの上を描けばいい、横を描けばいい。そうやっていけばそのうち埋まる。そしたら完成でいいじゃんって。描きたくない日は線を一本引いて今日はおしまいって日もあるんですよ。そういう日は描きたい気分じゃないから畑をやろうとか、ちょっと時間があるからトントンして家を作ろうとか。なにかを表現しているというより、自分が楽しむためにただ描いていて、わがままな絵を描いているだけです。サーフィン気持ちよかったな〜っていうのと同じように、今日気持ち良く描けたな〜っていうだけで一日が終わっていく。そういうノンストレスな生活から生まれる絵を描いているつもりです。

yoshi47のプロフィール

16歳の時にブレイクダンスを始め、そしてグラフィティを始める。20歳の時にアメリカ・カリフォルニアに渡りストリートアートというものに出会う。アメリカの色々な州にてライブペイント、個展、アートイベントなどにて活躍し、その後サンフランシスコにてバイクメッセンジャーとなり、そのコミュニティーの中にて生きるための本当の意味を見いだす。その後に日本に帰国して東京にてメッセンジャーとなる。現在はメッセンジャーをやめ、サーファー、スノーボーダー、オーガニックファーマーとして活動しながら絵を描く毎日をすごしつつ、日本、アメリカ、フランス、中国、オーストラリア、カナダ、メキシコ、スウェーデン、台湾などにてグループ展や、個展、壁画をメインに活動。東京を代表するストリートアート集団81BASTARDSの一員としての活動している。

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